一、出会い
それは大昔、まだ人や獣に未知なる力があふれている時代のお話。
町で暮らす良民や差別をうける賤民の他にもう一つ
山奥でくらす「獣族」が、その血を絶やすことなく暮らしている頃の話。
現代、彼らの歴史は流れ行く時の中で、いつしか幻となっていた……
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あたたかい春の日差しが暗い山奥を照らしている。
小川の流れもやさしく、草花もそよそよと風に揺られ、とても和やかな雰囲気が山全体にあふれていた。
しかし、そんな情景とは裏腹に、一人の少年が、必死に逃げ回る野うさぎを全力で追いかけていた。
「待て!俺の晩飯!」
ぼさぼさとした黒髪を、後ろできゅっと結んでいるその少年は、でこぼこしていて走りにくいはずの山道を、人間とは思えないような速さで駆け抜けていく。
もう少しで追いつきそうなところを、野うさぎは必死にかわしていた。
「あー、もう!こうなったらしょうがねぇ……」
そう言うと少年は突然足を止め、目を閉じた。
すると、足下から小さな竜巻のように風が吹きあがり、みるみると少年を包み込む。
ゴォっと音がして、竜巻が消えたかと思うと、砂煙の中から現れたのは先ほどの少年の姿ではなく、一匹の黒い狼だった。
そんなことが起こっている間に、野うさぎは生き延びたい一心で山の中をずんずんと進んでいた。
しかし途中で足音が聞こえなくなったのでほっとすると、近くに見えた小川の畔で休もうとした。
その時だった。
突然後ろから力強い獣の足音が近づいてくる。
野うさぎは驚くと、急いで川に飛び込んだ。
案の定、すぐ後ろからは狼が追いかけてきている。
(よし、捕まえた!)
狼が確信し、川に飛び込もうとしたその瞬間だった。
「まぁ、小さなうさぎさん。溺れているの?今すぐ助けてあげるわ」
一人のきれいな衣を着た少女が、そっと野うさぎを川から救い出した。
その様子を見た狼は、飛び出そうにもなぜかその少女の美しさに目を奪われ、立ち止まってしまった。
艶やかな黒髪を風になびかせ、前髪は上で結ばれ、かわいい髪飾りがついている。
白く輝くその肌はとても美しく、やさしげな瞳で野うさぎを見つめていた。
狼がそっと後ずさりしたとき、小さな小枝を踏んでしまった。
その音で何者かの存在に気が付いた少女は、はっと顔を上げる。
その瞳は狼と交わった。
「あら、かわいい子犬さん。あなたがこのうさぎをいじめていたの?」
「お、俺は子犬じゃない!」
すると、また狼の足下から小さな竜巻が巻上がり、その体を包んだかと思うと、
砂煙の中からは黒髪の少年が姿をあらわした。
「八丸だ。あと、犬じゃなくて狼な」
その様子を見た少女は、一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに微笑みを浮かべ八丸に向き合った。
「八丸様ですね。鈴花と申します。獣族のお方でございましたか」
「鈴花、さん…あ!今、獣族って……」
「あら、だって先ほどまで狼の姿でいらしたじゃない」
「その…俺たちの決まりでは、人間に自分の人の姿を見せてはいけないとあって……」
八丸は思わず口ごもった。
自分でも、どうして今人間の姿に戻ってしまったのか分からなかったのだ。
ただ、少女に子犬と呼ばれたとき、八丸は無性に否定したい気持ちに駆られた。
「い、今のは事故だ!事故!」
「あら、そうなんですか?大丈夫です、誰にも口外なんて致しませんのでご安心を」
にっこりと微笑むその笑みは、まるでたんぽぽの花のように柔らかな優しさを感じる。
「鈴花と、お呼び下さい」
「俺の方こそ、様だなんて……」
「じゃあ、八丸さんですね」
山の木々が風にゆられてさらさらと音を奏でる。気がつくと二人は見つめ合っていた。
「あっ、それで、この子なんですけども……」
急に鈴花の視線が腕に抱かれた野うさぎに移る。
「見逃してあげてはくれませんか?」
「そうは言われても、俺たちの晩飯が……」
「殺生などしなくとも、山の木の実や果物を食べれば良いのです」
鈴花のせがむような瞳を見たら、八丸は野うさぎを狩るのがかわいそうに思えてきた。
そして不思議と、彼女の要求に応えてあげたいという気持ちが沸き起こる。
「まぁ、元から人の臭いが移った獲物なんて、
怪しがられるから持って帰れないしなぁ…」
「それって」
「と、特別だっ」
「良かった!」
安心した鈴花は、何度か野うさぎの頭を撫でてやると、そっと放してあげた。
すると突然、遠くの方から女の人の声が聞こえてきた。
「鈴花様―!どちらにいらっしゃるのですか!鈴花様―!」
「いけない、朱音が探しているわ。もう行かなくては」
走り去ろうとした鈴花を、八丸は呼び止めた。
「あの!また……会えないかな?」
振り向いた鈴花は驚きの表情を浮かべていたが、すぐに八丸に真っ直ぐ向き合った。
「それでは、またこの小川でお会い致しましょう。
ここですとまたばれてしまいますので、もう少し…遠くに見える柳の木の下で」
最後にもう一度微笑むと、鈴花は声のする方へ走り去っていった。
「朱音!私ならここよ」
「あ!鈴花様!いったいどちらへ……」
二人の声が聞こえなくなると、八丸は人間の姿のまま、山奥へ走り出した。
途中で木の実を両手にいっぱい採ると、さらに奥へ奥へと進み、
二本のイチョウの木が並ぶところへ出た。
辺りは霧で覆われていて、イチョウの木と木の間はよけいに濃い霧でおおわれているので、先が全く見えない。
しかし、八丸は躊躇せずにその木々の間をくぐり抜けた。
すると、不思議なことに、くぐり抜けたとたん霧が晴れ、ひとつの村が現れた。
ここが八丸達、獣族の住む村「霧の里」だ。