十八、狐の涙
山の麓の入り口に、九人の男が屯していた。
それぞれが猟銃を抱え、一人の男を前に一列に並んでいる。
八人の前に立つその男は、頌澄の付き人である霧木だった。
「今一度言う」
重みのある声が緊張感を生み出し、鋭い目つきが並んでいる男たちを圧迫する。
「今回の目的は、あくまで山神の居場所を突き止めることだ。
全て私の指示に従って行動しろ。勝手な真似は許さぬ、良いな」
「はっ!」
八人の男は声をそろえて返事をした。
「全ては頌澄様のため。失敗は許されない……」
霧木の言葉に、うおおお!と男たちは声を上げ気合を入れる。
霧木を中心に前後四人ずつ並んだ隊列で、男たちは山の中へと足を踏み入れた。
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カラン……カラン……
…カラン
カランカランカランカランカラン
カラカラカラカラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラ
ガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラ
ガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラ
ガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラ
ガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラ
ガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラ
「―…っ……!な、なんだ!何事だ!!」
大きな滝を潜り抜けた先にある洞窟の奥。
山神と祀られる少女、紫苑は、異常なほどけたたましい音に思わず両手で耳を塞いだ。
突然、洞窟中に施された木の実の殻や石などで作られた飾りが激しく揺れ始めたのだ。
「山神様!」
「どうなされましたか!」
異変に気付いた紫苑の側近であるアサとミサも、慌てて洞窟の奥へ駆けつけた。
紫苑は座り込んで自分の肩を抱き、ガタガタと震えていた。
「6……いや、8、9?異常だ。今まで、こんな人数……―」
「落ち着いてください。どうなされたのですか」
「人間だ……!人間が山へ入ってきた。しかも、普段の狩りにくる数じゃない。
何が起こるか分らぬとにかく、山の民が危険だ」
紫苑はバッと立ち上がり、。大きく見開いた目をアサとミサに向けた。
「すぐに、一帯の里へ警告しろ!一人も里から出るなと!
何か起きてからでは遅い。山中の小鳥たちに協力を呼びかけろ!
私はこれから、近辺の里全ての結界の強化にあたる」
「はっ」「はっ」
アサとミサは同時に短く返事をすると、急いで洞窟の外へ走って行った。
それを紫苑は確認すると、そっと胸元から首飾りをたぐり寄せ着物の襟から取り出した。
首から下げられた紐には、勾玉のような形をしたものがついている。
黒くて小さなそれを、紫苑は両手でぎゅっと握りしめた。
「―……姉上。私に力をお貸しください……」
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「大変だ!山神様から警告が出たぞ!」
「里の外に出るな!子供はすぐに家へ帰ろ!急げ!」
突然の山神の警告に、霧の里は大混乱に陥っていた。
里中の者が走り回り、家族を探してはそろって家に入っていく。
そんな人達の中を、八丸も不安な気持ちで走っていた。
きょろきょろと目を走らせる先に、一人の大柄な男が目に留まった。
「あ!猪雄!」
「八丸!」
八丸は大きく手を振り、猪雄の元へ駆け寄った。
「聞いたか?緊急事態だって」
「あぁ、何でもすごい数の人間が山へ入ってきたってね。
おいらもたった今チビ達を集め終わったところだよ」
いつもは穏やかな猪雄の表情も、緊迫した空気に強張っている。
「なぁ、ところで、響炎を見てないか?
さっきから探しているんだけど、姿が見当たらないんだ」
「響炎なら、おいらも警告を伝えようと思って家まで行ったんだけど…居なかった」
「あいつ……こんな時にどこ行ったんだ」
八丸はぎゅっと拳を握りしめ、唇を噛んだ。
「葵ちゃんのところへは行ってみた?」
「いや、まだだ」
すると猪雄は腕を組み、んーっと首を傾げる。
「もしかしたら、美夜ちゃんも一緒にいるかもしれない。ここはもういいから、行ってみよう」
八丸はその提案に頷くと、猪雄と一緒に葵の元へ走り出した。
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夏の青い空が広がっている。山の草木は青々と茂り、山全体に生気が溢れていた。
そんな山奥の、熱い木洩れ日がキラキラと差し込む木陰の道を二匹の狐の兄弟が歩いていた。
そのうちの一匹は子狐で、楽しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねるように道を進む。
その狐の兄弟は、響炎と美夜だった。
二匹の艶やかな金色の毛並みは、木漏れ日を浴びて一層美しく輝いている。
「おい、美夜。そんなにはしゃいでいると怪我をするぞ」
響炎の優しい声に、美夜はぴくぴくと耳を動かして振り向いた。
「えへへ、ごめんねお兄ちゃん。久しぶりにお兄ちゃんと山へ出てきたから嬉しくって」
「目的は食糧を探すことなんだから、ちゃんと周りに目を配れよ」
「はーい!分ってるって」
相変わらずぴょこぴょこ駆けていく美夜の小さな後姿を、響炎は暖かい瞳で見つめていた。
(それにしても、いつになく鳥たちが騒がしいな……)
空を見上げると、小鳥たちの群れが激しく囀りながら飛び交っている。
異常な鳥たちの行動に、響炎は嫌な胸騒ぎがした。
「あ、お兄ちゃん!いい匂いしてきたよ。近くに果物が……」
「美夜、少しここで待っていろ。鳥たちの様子がおかしい。何かあったのかもしれない」
「えっ?」
「俺はちょっと話を聞いてくるから。すぐに戻る。だからここにいるんだぞ」
「うん!分かった」
「それと、絶対に人の姿には……」
「分ってるよ!大丈夫、早く戻ってきてね」
響炎は美夜の頬に優しく頬ずりすると、急いで小鳥たちの飛ぶ方へ駆けて行った。
響炎がいなくなってからも、美夜は近くから漂ってくる香りが気になって仕方なかった。
(お兄ちゃん、遅いなぁ……)
ふんわりと鼻を衝く匂いに空腹が刺激され、いよいよ我慢が利かなくなる。
(戻ってくる前に、ちょっとだけ……。きっとすぐそこだもん、大丈夫だよね)
美夜は何度かきょろきょろと辺りを見渡した後、匂いのするほうへぴょんっと駆け出した。
(あ!あった!)
案の定、すぐに匂いの元は美夜の前に姿を現した。
鮮やかなオレンジ色の実を実らせた琵琶の木が立っていたのだ。
鳥たちに啄ばまれたのであろう、いくつかの実は割れて地面に落ちている。
そこから甘い香りが漏れていたのだ。
美夜は早速、一番低い枝に生っている実を目がけて飛び跳ねた。
口を大きく開け、もぎ取ろうと試みる。
しかし、あと少しところでかすってしまい、なかなか採ることができなかった。
何度も飛んでみるが、鼻がわずかに当たる程度で、落すこともできない。
(人の姿なら、届きそうだなぁ……)
美夜はじっと琵琶の実を物欲しそうに見つめながら考えた。
近くで嗅ぐ琵琶の匂いは、いっそう美夜の食欲をそそる。
(こんな山奥だもん、誰もいないよ。一瞬だけなら、大丈夫だよね……)
同時に、先ほどの響炎に言われた約束を思い出す。しかし美夜は、ふるふると首を振った。
(お兄ちゃんに見つかる前に、元に戻れば大丈夫)
美夜はぐっと奥歯に力を込めて、目を閉じた。地面から小さな風の渦がふわりと美夜を包み込む。
そしてあっという間に子狐の姿は、二つ髷を結っている幼い少女の姿に変わった。
「えいっ!」
美夜は勢いよく飛び上がった。
すると、あっさりと小さな手は琵琶の実に届き、ぷつりともぎ取ることができたのだ。
「やった!」
きゃっきゃと喜んでいると、近くから声が聞こえてきた。
「美夜ー!どこだー!美夜ー!!」
(お兄ちゃんだ!)
聞き慣れた声にハッと我に変えると、慌てて美夜は元の子狐の姿に戻った。
「お兄ちゃん!ここにいるよ!」
美夜は大きく返事をすると、急いで採りたての琵琶を咥えて声のする方へ走り出した。
パンッ!
「―……っ…ア……!!」
木の角を曲がろうとした、その時だった。一発の銃声が山の中に反響した。
直後バサバサっと飛び立つ小鳥たちの羽音とドサっと鈍い音が響炎の耳に入った。
「―……っ!!美夜!?」
ただならぬ緊張感が響炎を襲う。一目散に音の聞こえた方へ駆けだした。
すると、駆けだすや否や、すぐに響炎は足を止めた。
木の角を曲がったすぐそこに、小さな子狐が倒れていたのだ。
真っ赤な血が止めどなく体から流れだし、辺りの草花を真紅に染めていく。
すぐ近くには、小さな琵琶の実が転がっていた。
「あ……あぁ……!」
響炎の全身ががくがくと震えだす。状況を理解すると同時に、慌てて子狐に駆け寄り顔を鼻で突き始めた。
まだ、息はしている。口からも血を溢れ出しながら、子狐はうっすらと瞼を開いた。
「美夜……おい、美夜!しっかりしろ!美……」
「ほう……獣族だったとはな」
突然、低い男の声が聞こえた。響炎はバッと顔を上げ声のした方へ顔を向けた。
離れたところに、数人の人影が見える。
「待て、あれは討つな」
一人の背の高い男が、猟銃を構えた男の手を抑えた。
「美しい毛をしているから、頌澄様への手土産にもってこいだと思ったが……予定変更だな」
「霧木さんよう、いいんですかい?あっちの方がでけぇや」
「黙れ」
制された男がしぶしぶ銃を下すと、霧木は少しずつ前に歩み出た。
(人間!)
響炎は瞬時に牙をむき出して身構えた。
(あいつらが、さっき鳥たちの言っていた……)
響炎は再び倒れている美夜に目を向けると、先ほどよりもさらに弱っていることに気付いた。
後悔の念で胸が締め付けられる。
(俺が…俺が美夜を一人にしたばかりに……こんなことに……)
悲しさと悔しさで胸の奥がじりじりと熱くなる。
すると、再び霧木が後ろの男たちに向かって口を開いた。
「大きいものは、以前仕留めた狐の上等な毛皮があるからいいだろう。
それより、今日の目的は別にある」
その言葉に、響炎の耳がぴくりと動く。
(以前に……仕留めた狐……―?)
わなわなと、全身から怒りが込み上げてくる。
そしてその怒りは、一つの答えにたどり着くのだった。
「あの狐の夫婦は、頌澄様も気に入っていたからな」
次の瞬間、響炎の体は勝手に霧木を目がけて走り出していた。
ギリギリと食いしばる歯をむき出しにし、全身の毛を逆立てて突進していく。
(あいつが……あいつが、母さんを!父さんを!!)
「ガルアアア……っ!!」
ガン!
食いかかってきた響炎の牙を、霧木は突如出現させた金の棍棒で受け止めた。
「……悪いが、私は金術の術師だ」
「……グゥ……!」
牙に激しい痛みを覚え、響炎は金棒から口を外すと素早く距離を取った。
(あいつ、美夜まで……俺の家族を、家族みんなを……許さない!許さない!!)
ギラギラと怒りに燃えた瞳で響炎は霧木を睨み付ける。
そして再び力強く地面を蹴ると、今度は足を目がけて飛びついた。
しかし、それを霧木は表情一つ変えること無くドカッと蹴り上げる。
霧木の足には、いつの間にか金の防具が身についていた。
「獣ごときが、牙なんぞ無駄だ」
跳ね上がった響炎の体は、何とか地面に受け身をとって転がり込んだ。
「ガハっ…!ガハ ガハッ 」
息がヒューヒューと苦しい音に変わる。
「さすが霧木さん!頌澄様の側役はただ者じゃねーや!」
「いいぞ!そんな狐っ子やっちまえ!」
霧木の後ろの男たちがボロボロになった響炎を見て面白がっている。
腕を上げ、盛んに野次を飛ばしてきた。
(くそ!くそ!くそおおおおお!!!)
悔しさを力に何とか体を持ち上げ、再び飛びかかろうと後ろ脚に力を込めたその時だった。
パキっと、後ろから小枝の折れた音が耳に入った。
驚いて振り向くと、そこには霧木の仲間であろう一人の男が、倒れている美夜にそっと近づいていたのだ。
「―……美夜!!」
響炎はすぐさま方向を変えると、美夜に向かっている男を目がけて噛み付いた。
「い、いぎゃあああああ!!」
響炎の牙は見事に男の脹脛に深く食い込む。
足を抱えて転がりまわる男をしり目に、響炎は素早く美夜の首元を口で咥えた。
そして美夜の体を持ち上げると、そのままくるりと男たちに背を向け、里へ向かって走り出した。
「追うぞ」
「でも霧木さん、討った方が早いんじゃ……」
「馬鹿を言うな。目的を忘れたのか。
あいつの姿が見えなくなるまで追うのだ。そこが、獣族の住む里の入り口だ」
人間の男たちの話声を背に、響炎は残された力を振り絞り必死に走った。
(今の俺じゃ、やり合うだけ無駄だ。とにかく、早く美夜を山神様の元へ……!)
必死に走りながら、響炎は咥えている美夜の体から、すでに生気を感じないことに気付いていた。
それでも、必死に里の目印であるイチョウの木を目指して走り続けた。
(嫌だ……死ぬな、美夜!死ぬな!)
いつの間にか響炎の頬をポタポタと、涙の滴が流れていた。
獣族は、獣の姿でも悲しいときは泣くのです。