十六、貴族の外出
季節は移ろい、夏になった。
窓から見える山は深い緑色に染まり、鈴花の屋敷の庭でも、夏の虫たちが賑やかに騒いでいた。
そんな虫たちの声と合わさるように、美しい琴の音色が屋敷中に響き渡っていた。
ポロン ポロン ……
鈴花は笑顔を浮かべながら琴を弾いていた。
そんな楽しそうな鈴花に、ちょうど部屋へ入ってきた朱音がにこりと微笑み話しかけた。
「いつもより、一段と良い音色でございますね」
「あら、朱音。ありがとう」
「何か、良いことでもございましたか?」
鈴花は視線を落し、再び琴に触れて弦を撫でた。
「いえ、まぁ……」
「―…今朝、抜け出しになられた時ですか?」
ビンッ
ぎくりとした鈴花の指は琴の弦を弾き、変な音を鳴らした。
「…あら、気づいておりましたの?」
「当然でございます」
朱音の言葉に、鈴花は思わず困った笑顔を浮かべた。
鈴花は相変わらず、不規則に日を空けながら、早朝の山で八丸と会っていた。
今朝も早々に屋敷を抜け出し、いつもの柳の木の下で話をしたのだ。
屋敷に帰ってきても、まだあの時間の楽しい余韻が胸を動かすのだった。
「そんなにお出かけなさりたいのなら、お声をお掛け下されば良いのです。
どこへでもお供いたしますよ」
「えぇ、そうね。最近は朱音と出かけておりませんでしたわね」
朱音がいたら、八丸には会えない。
朱音に獣族の少年と会っているだなんて知られてしまえば、
何を言われるか判っていた鈴花は、ただ笑顔で朱音に笑いかけた。
そんな鈴花の作り笑顔に、朱音は不満げな顔を浮かべていた。
すると突然、鈴花の部屋の襖が開いた。
母の菊が、付き人の女性、梓とやってきたのだ。
「失礼致します」
梓は鈴花に向かって深々とお辞儀をした。
「あら、母上」
「お、奥方様っ」
朱音は慌てて菊に向かって土下座した。
「いい音色が聞こえると思って来たのですが、終わってしまったの?」
「少々、朱音と話をしておりましたわ」
「あら」
少し残念そうに眉を垂らした後、菊の顔がふわっと笑顔に変わった。
「ねぇ…鈴花。良ければこれから、芝居を見に出かけませんか?
とてもおもしろいものがやっていると聞きましてね。
貴族の皆様の間でも、とても人気が出ているとか」
菊は上品に鈴花へ笑いかけた。鈴花も頬を緩め、手を合わせて喜んだ。
「まぁ、それは楽しそうですわ。
ちょうど朱音とも、最近出かけていないと話していたところだったのです」
「それは良かった。では、準備なさい。参りましょう」
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鈴花と菊、それぞれの付き人を含めた四人は牛車に揺られて都の中心部へ出た。
ここでは商人や芸者が集まり、見世物小屋なんかも並んでいる。
通りはそれらを見物する人々の笑い声で溢れており、賑やかだった。
鈴花たちは、その中でも一際大きな芝居小屋へ入った。
芝居小屋の中は外以上に、多くの人々で溢れていた。
赤や緑の垂れ幕が下がる舞台の上に、派手な化粧に芝居衣装を身に着けた人々上がり芝居が始まった。
役者が剽軽な動きや言葉を発する度に、観衆の声援や笑い声がその空間を埋め尽くす。
鈴花は芝居を楽しんだ。久しぶりに、八丸との会話以外で楽しい気分を味わった。
そして、隣で口を隠して笑う母、菊の笑顔に暖かいものを感じていた。
芝居が終わると、一斉にざわざわと人々が動き出した。
鈴花たちも立ち上がり、付き人二人が菊と鈴花を挟む形で並び出入り口を目指して進んだ。
出る人と、次の講演のために入る人とで入り口がごった返している。
「母上っ」
突然、わっと人の波が鈴花たちのもとに入り込んだ。
丁度鈴花と菊の間に人が流れ込み、二人は引き離されてしまった。
「鈴花!?」
菊も鈴花も咄嗟に手を伸ばしたものの、人の流れに流されるまま、二人の距離はどんどん離れていく。
「鈴花様、こちらに!」
咄嗟に朱音は鈴花の手を掴んだ。
朱音はぐっと鈴花を引き寄せると、人の流れに沿って移動し、何とか二人は芝居小屋を抜け出すことができた。
人気の少ないところまで移動すると、朱音は鈴花の手を放した。
「お怪我はございませんか?」
「ええ、大丈夫。ありがとう」
ふぅっと息を整え、鈴花はしっかりと立ち直した。
「母上たちとはぐれてしまいましたね。あちらは大丈夫かしら」
「奥方様には梓殿がついておられます。彼女は一流、きっと無事でしょう」
「そうですわね。では、早く牛車へ戻りましょう。きっと母上も戻っていますわ」
二人が歩き出したその時だった。
「おやおや、良い身なりをした小娘じゃないか。
上級貴族がこんなところで何をやっているんだい?」
ザッザッと砂をける足音とともに、数人の男が鈴花たちの目の前に立ちはだかった。
即座に朱音は鈴花をかばうように前へ出た。
「鈴花様、お下がりください」
小声でささやく朱音に頷き、鈴花は一歩後ずさった。
「貧相な身なり… 良民共が何用か。無礼な真似は許しませんぞ」
鋭く睨み付ける朱音を見下すかのように、真ん中にいる男が一歩前に歩み出た。
周りの男たちも手の骨をぽきぽきと鳴らして、今にも殴りかかる勢いだ。
「貴族だろうとなんだろうとしょせん小娘の分際でいい気なものだな。
金を置いていけ。いや、それだけじゃその容姿はちと惜しいなあ……」
どろりとした目つきで男は朱音と鈴花を交互に見る。
「貴族様は別品、付き人も上玉だな。おい、金巻き上げるだけの作戦は変更だ。捕まえるぞ」
うおおぉおっと雄叫びともに男たちは一斉に鈴花と朱音に襲いかかった。
朱音は素早い動きで的確に男の急所を突き、鈴花には指一本触れさせようとしない。
女とはとても思えない力強い腕技で、次々に男を打ち返す。
ガッ
「きゃっ!」
一人の男の手が鈴花の腕を掴んだ。
「鈴花様!!」
朱音は組み合っていた男をドカっと蹴り上げると、ササっと指で何かの印を結んだ。
「業火、火神朱雀!!」
ふぅっと勢いよく吹き出した息がみるみる炎に変わり、男の腕を捕える。
「あっ 熱ぃいいい!!!」
「鈴花様、早くこちらへ!」
朱音は鈴花の手を引き、呻きながら倒れている男から距離をとる。
しかしまだ動ける男が数人、再びまとまって襲いかかってきた。
「少し、屈んでいてください」
言われるがままに鈴花は腰を下げる。
それを朱音は確認すると、キッと男たちへ向き直り、再び素早く手で印を結んだ。
「断絶、土神黄龍!はっ!」
勢いよく朱音が地面に手をつくと、ボゴボゴっと凄まじい音とともに地面が盛り上がり、
男たちの足元はみるみるひび割れ、地割れに飲み込まれた。
「ぎゃ、ぎゃあああああああ!!」
「あ、朱音!」
「大丈夫です、殺しておりません」
朱音がスっと地面から手を離すとゆっくりと、ゴゴゴっと鈍い音をたてて地面は元の状態へ戻っていった。
やがて何事もなかったかのようにその場は元通りの形状を成し、
鈴花たちに襲いかかった男たちはぐったりと地面に倒れていた。
ぴくぴくと体の一部が動く者や低く呻いている者がいるが、朱音の言うように全員息はしている。
「ぐぅ…くそっ、女、術師だったか……」
初めに声をかけてきた男が何とか顔を持ち上げ、朱音を睨み付けた。
「貴族の付き人を、甘く見ないことです」
朱音も負けじと、鋭い眼差しで男を見下ろす。
「これに懲りて、二度と貴族に手を出そうなどと考えないことですね。
行きましょう鈴花様。直騒ぎを聞きつけ役人が来ます」
朱音は鈴花の手を引き、倒れている男たちを余所にそそくさとその場を離れた。
「鈴花様、お怪我はございませんか?」
途中で朱音は立ち止まると、心配そうに鈴花の顔を覗き込んだ。
鈴花は胸を撫で下ろし、朱音に笑顔をむける。
「大丈夫ですわ。朱音が守って下さいましたから」
「付き人として、当然のことをしたまでです」
「朱音が術を使うところを見たのは初めてで驚きました。とても強いのね」
「そ、そんなことはございません!あの程度、術師の基礎でございます!」
朱音は顔を赤らめふるふると首を振った。
「牛車はすぐそこです。きっと菊様もお待ちかと。急ぎましょう」
「はい」
再び二人は歩き出し、なんとか牛車の元へ辿り着いた。
牛車の傍には案の定、母の菊が心配そうな顔で梓と並んで立っていた。
二人の姿を見つけるや否や、菊は鈴花の元へ手を広げて駆け寄った。
「鈴花!あぁ、よかった。無事でしたのね」
鈴花の無事を確認すると、強張っていた菊の表情はふわりと緩み、そのまま鈴花を抱きしめた。
その後ろから、梓もにこりと二人に笑いかける。
「突然はぐれてしまったから、心配したんですよ」
「すみませんでした、母上…」
鈴花はゆっくり菊から放れると、申し訳なさそうに頭を下げ、隣りで朱音も深々と頭を下げた。
「でも、朱音がついていてくれたので大丈夫でしたわ」
「そう、よかった。やはり鈴花の付き人は朱音を選んで正解でしたわね」
「勿体なきお言葉でございます」
朱音は再び深々と頭を下げた。
屋敷に着く頃には、辺りが薄暗くなり始めていた。
鈴花達を乗せた牛車が屋敷の前に止まろうとすると、一台の別の牛車がすでに止められていた。
「あら、客人かしら」
菊が首を傾げて呟くのと同時に、鈴花の肩かビクリと震えた。
嫌な予感に胸が騒ぐ。
するとそこに丁度良く、屋敷から二人の男が出てきた。どちらも整った身なりをしている。
前を歩いていた男は鈴花達の乗る牛車を見つけるなり、笑顔で近付いてきた。
その男の笑顔を見て、鈴花の体はさらに強張った。
そう、その男は頌澄だったのだ。
前回のあとがきで、頌澄も出るよ!とか予告しておいたくせに
本当に出て終わった…中途半端ですみません。
書いてたら思いのほか鈴花サイド長くなってしまい、
前回と時間もあいちゃったので、飽きられる前にひとまず投稿。
次回は頌澄も喋るでしょう ←
そろそろ後半戦突入です。たぶん。