十三、想い
まだ日が昇りきらない早朝。
霧の里がまだ静まりかえる中、八丸は早々と家を出ると真っ直ぐ小川のほとりに立つ大きな柳の木を目指した。
鈴花と約束を交わした場所だ。
早起きの小鳥たちのさえずりを背景に、八丸は黙々と小道を進んでいた。
踏みしめる草花が、まだ朝露で湿っている。
八丸は小川に近づくほど、胸の鼓動が早まっていることに気付いた。
不思議な緊張感が腹の奥から沸き起こり、握り拳の中が熱く汗ばむのを感じる。
(会いたい。早くあの人に会いたい―……!)
足は次第に速まり、柳の木が見えたころには、いつの間にか駆け出していた。
着いてみると、まだ鈴花の姿は無かった。
八丸は少しがっかりして小川へ歩みよる。
水面に映る自分の姿を見て、肩まで垂れ下がる黒髪をキュッと後ろで結び直した。
水をすくって顔を洗うとブルブルと水を振り落とし、向かいの岸へ顔を向けた。
以前のように、そこに鈴花が立っているのではないかと期待したのだ。
だがそこには、誰の姿もなかった。
「早すぎたか」
思わずぽつりと呟く。八丸は手持無沙汰にうろうろした後、
どっしりとそそり立つ柳の木の前に腰を下ろした。
鈴花に会えると感情が高ぶって、いつもよりも早起きをしたからだろうか。
澄みきった心地の良い山の空気に、優しい子守唄のような小鳥のさえずり。
幹に背をもたれていると、不思議と安心感に包まれて眠たくなってきた。
(あったかい…………)
木から大きな自然の力が、自分の中へ入り込んでくるような心地を感じていると、
いつの間にか八丸は眠りに落ちていた。
『―………さん』
(何か、聞こえる―……)
『八丸さん』
(鈴花の声……?)
温かい優しい声
「―……さん、八丸さん!!」
「わっ!!」
八丸は激しい体の揺れとその声に驚き、思わず飛び起きた。
顔をあげると鈴花がにっこりと微笑んでいる。
「おはようございます、八丸さん。やっと起きてくれましたね」
「鈴花!あ、俺 いつの間に―……!」
八丸は慌てて空を見上げた。
日はあまり動いていなかったので、それほど長くは寝ていないらしい。
そんな八丸を見て、鈴花はくすくす笑っていた。
「ごめんなさい、少し遅れてしまいました」
「いや、俺の方こそ。寝入ってしまって、ごめんな」
「いえ。待っていて下さったことが嬉しいのです」
鈴花の柔らかい笑顔を見ると、穏やかな気持ちになる。
二人は以前と同じように並んで柳の木の下に腰を下ろした。
すると、鈴花が申し訳なさそうな顔で口を開いた。
「実は、昨晩少々立て込みまして……。
今朝は使用人が心配をして、いつもよりも早く私の部屋へ来たのです。
そのため、朝食をとるまで自由になれませんでした」
「そうだったのか」
「本当にお待たせして、申し訳ありません」
鈴花は八丸に向かって正座をし、深々と頭を下げた。
「そんな、大袈裟だ」
八丸は笑いながら鈴花の肩を起こし、顔を上げさせる。
「八丸さんは、優しいのですね」
「いや、俺はただ―……」
(鈴花に会いたかっただけだ)
八丸は思わず鈴花から目を逸らした。
気持ちを言葉にしようとするだけで、顔が熱くなる。
結局言葉に詰まってしまった。
「八丸さん」
鈴花は木に背を向けて座りなおすと、口を開いた。
「私、夢を見たのです」
「夢……?」
鈴花はこくりとうなずく。
「はい。不思議な夢でしたわ」
「どんな夢だったんだ?」
八丸の興味が鈴花の話に集中する。
「八丸さんが出てきたのです」
「俺が!?」
「はい。夢の中で私は、白い兎でした」
「えっ―……?」
自分の名前が出たことで、一瞬体の中で熱い血が騒ぐような感覚に襲われたが、次の言葉を聞いた瞬間、一気にその血が引くような思いがした。
(鈴花がウサギ)
瞬間、頭の中で先日の叔父たちの言葉を再び思い出す。
『おめぇ、ヒトを食ったのか?』
以前と変わらず美しい鈴花の横顔。白い肌。赤い唇。
夢を思い出しているのだろうか、くすくすと笑うあどけない表情。
口元にあてられている細い指。
そして、先ほど肩に触れたときの、柔らかい手触りがよみがえる。
「…………あぁッ」
(鈴花がウサギ 鈴花がウサギ 鈴花がウサギ)
体の中で、何かがふつふつと沸き起こるような感覚がする。
不思議な感覚に襲われ、混乱しそうになったその時だった。
そっと、左手が温かいものに包まれた。
はっと顔を上げると、心配そうな鈴花の顔がそこにあった。
「大丈夫ですか?」
「お、俺……今………」
「汗がすごいですよ。急に息が荒くなったので、驚きましたわ」
確かに八丸の呼吸音は、フゥ、フゥと荒いものに変わっていた。
そっと空いている右手を胸にあて、呼吸を整える。
「……何か、病気なのですか?」
「いや!違う、大丈夫だ」
鈴花の心配そうな顔に、思いっきり笑顔を向ける。
「それで、夢がどうしたって?」
「あ、はい」
鈴花はそっと八丸の手を離した。
不意に八丸は、何とも表せない寂しさを感じた。
「八丸さんは狼で、私は兎で」
「うん」
「山の中を駆け回って遊んでいたんですわ」
「え?」
あまりにも和やかな画が頭に浮ぶ。鈴花は穏やかな表情で空を見上げた。
「とても、楽しい夢でした」
八丸は自分の心が途端に穏やかになるのを感じた。
(あぁ、そうか)
鈴花が再び八丸を見て微笑むので、八丸もにこりと微笑む。
(俺はこの人を、食べたいだなんて思わない)
そっと鈴花の頬に手をあてる。
「は、八丸さん―……?」
鈴花が不思議そうな瞳で八丸を見上げた。
(鈴花は人間だけど)
八丸はそんな鈴花の瞳を見つめ返す。
「―…………綺麗だ」
かすれるような、優しい声で八丸は呟いた。
みるみる鈴花の頬は赤く染まる。
「……えっ?」
「本当に、鈴花は綺麗だ」
「ど、どうしたのですか急に―……」
「鈴花はさ」
八丸は鈴花の頬にあてていた手を、そっと放した。
「顔も、心も綺麗なんだな」
鈴花は目をぱちくりさせて驚いていたが、次第にはにかんだ笑顔を浮かべた。
「八丸さんは、不思議ですね」
「不思議?」
「だって、私をこんなに幸せな気持ちにするではありませんか」
照れくさそうに、自分の両手で口元を覆っている。
「八丸さんにそう言って頂けると、嬉しくなるのです」
「そんな……」
思わず八丸まで頬が赤くなる。
「鈴花ほどの人なら、綺麗だなんて言い慣れているだろ」
「そんなことございませんわ」
鈴花はふるふると首を振る。
「八丸さんの言葉と他の殿方の言葉では、まるで違う言葉を言われているように感じるのです」
あまりにも真面目に言う鈴花を、八丸は恥ずかしさから直視できなかった。
「それに、名前も―……」
「名前?」
「八丸さんは、私を“鈴花”と呼んでくださいます」
「そ、それが……?」
戸惑っている八丸を見て、再び鈴花は微笑んだ。
「それが、嬉しいのです」
八丸は鈴花の笑顔の意味がいまいち理解できす、うつむきながら頭ポリポリ掻いた。
「んー、よく分からん……」
「うふふっ 良いのです、分からなくても」
二人はしばらく会話を楽しんだ。
そんな楽しそうな二人の上を、一羽の鳶が飛んでいたことにも気づかずに。
以前のように日が高くなると鈴花は立ち上がった。
「そろそろ、戻らなくてはいけません」
「もうそんな時間か」
八丸も名残惜しそうに立ち上がる。
「なぁ、あの……」
「はい」
「また…」
「また、会って頂けませんか?」
八丸が言い切る前に、鈴花が八丸を誘った。
意外な言葉に、八丸は一瞬言葉に詰まってしまう。
そして徐々に、嬉しさが全身に込み上げてきた。
「あ、あぁ。会おう!会いたい!」
「では、また三日後に」
微笑み頭を下げる鈴花に、八丸は手を振る。
そして鈴花の後ろ姿が見えなくなるまで、そこに立ちつくしていた。
今さっき別れたばかりなのに、もうすぐにでも会いたい衝動に駆られる。
胸がドキドキと激しく脈打っていて、頭の中は鈴花の笑顔でいっぱいになる。
「その人ばかりを考える―……」
八丸は不意に、葵の言葉を思い出した。
(あ、そっか……………………)
自然と笑みがこぼれる。
(これが、恋なんだ)
暖かい木漏れ日が、八丸を優しく照らす。
まるで心の中まで照らされているように、暖かい気持ちに包まれていた。