九、甘い香り
八丸は里に踏み込み、はっと気づいた。
今日も獲物を一匹も捕らえていない。
さすがに二日も獲物無しは厳しいと思い、山へ引き返そうとしたときだった。
「よう、八丸。何してんだ?早く入れよ」
山側から声をかけてきたのは、人の姿の響炎だった。
「よう、響炎……」
八丸は言われるがままに里へ入ってしまった。
響炎の腕には四匹の死んだ大きな山鼠が抱かれていた。
八丸の視線に気づいた響炎は、得意げな笑みを見せる。
「今日の獲物勝負は俺の勝ちだな。 お前は・・・?」
響炎視線が八丸の全身を走る。
「なんだよ、もしかして一匹も無しか?
朝から姿が見えないから、てっきり狩りに行ったと思ってたぜ」
響炎は呆れた素振りでと肩を落とす。
「ちょっと空気が気持ちよかったから、散歩に行ってたんだ」
八丸はさらりと嘘を言った。そして慣れない作り笑いをむける。
すると突然響炎は、ん?っと顔をしかめた。
そして八丸に近づき、鼻をひくひく動かした。
「お前、なんだか甘い匂いがするぞ」
響炎の隠し事を探るような目つきが、八丸の全身に突き刺さった。
どきっと鼓動が高鳴る。
きっと鈴花の近くに座っていたから、鈴花から香っていたお香のような匂いが八丸にもうつったのだろう。
それしか考えることができなかった。
「……あ、あぁ」
思わず言葉に詰まる。
響炎は不思議そうに首を傾げ、八丸の返事を待っている。
「さっき―…山ツツジのたくさん咲いているところで昼寝をしていたんだ。
その時に香りがついたのかも!」
八丸はへへっと笑ってごまかした。
「ふーん……」
響炎はまだ納得がいかないのか、首を傾げて鼻をひくひくさせている。
「昼寝して獲物取り忘れるなんて、やっぱりバカ犬だなっ」
響炎はハハっと笑う。
「なっ!余計なお世話だ!」
八丸は響炎につかみかかろうとしたが、響炎はそれをするりとかわして里の方へ走り出した。
「俺はお前の相手してらんないの!美夜が腹空かして待ってるから。じゃあなー」
軽く手を振り走り去る響炎の背中を見届けてから、八丸は狩りのために、再び山へ引き返した。
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八丸は山うさぎを二羽捕まえて、狼の集落へ戻った。
日はだいぶ沈んでおり、当たりは薄暗く、多くの狩りへ出ていた狼たちも帰ってきていた。
「ただいまっ」
「あ!八丸兄ちゃん!」
八丸が家に入ると、子供が三人駆け寄ってきた。
狼の集落では親戚は皆固まって暮らすことが普通だ。
この子供たちも八丸とは直接血のつながりはない、叔父や叔母の子供だ。
「今日はうさぎ二羽!」
八丸がうさぎを掲げてみせると、子供たちは嬉しそうにはしゃぐ。
「さすが兄ちゃん!」
「狼一の狩り名人!」
八丸はそんな子供たちをなだめて家の奥へ入っていった。
木の造りで、床は砂地に藁が敷き詰められている。
所々に腰かけるための丸太が置かれていて、家の中央には囲炉裏がある。
火はついていないそれを囲んで、男が四人座って談話していた。
八丸に気づき全員が顔を上げる。
「おかえり、八丸」
四人の中の一番若い男が声をかけてきた。
八丸の実の兄である七弥だ。
黒毛で短髪の爽やかな雰囲気の青年である。
「ただいま、七兄」
八丸は捕まえてきたうさぎの骸を藁の上に置いた。
「八丸・・・お前なんか甘い匂いするぞ?」
「えっ?」
八丸は、先ほどの響炎の時と同じ感覚に再び襲われた。
「……山ツツジの近くで昼寝をしていたんだ」
「へぇ、山ツツジねー」
七弥の視線がゆっくりと八丸の全身を這う。
「まぁ、お前も座れよ」
「あ、ありがとう」
八丸が七弥の隣に腰を下ろそうとした時だった。
「……おい、人くせぇなあ」
正面に座っていた、叔父の伍雨が突然呟いた。
右頬にある深い傷跡が特長だ。鋭い目つきで八丸を睨みつける。
八丸は思わず怯んでしまい、動けなくなった。
他の男たちも伍雨の言葉で鼻を動かす。
「ん?言われてみれば……」
「確かに、臭うな……」
(バレた―……っ!!)
やはり大人の鼻はごまかせないのか?
そう覚悟を決めた時だった。
「おめぇ、ヒトを食ったのか?」
「えっ?」
八丸に突き刺さった伍雨の言葉は、あまりに予想外のものだった。