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「少年、生きるのがそんなに辛いかい?」
はっと顔を上げると、女の人は柔らかい微笑みを浮かべて僕を見ていた。
二重の意味でドキリとした僕が何も言えずにいると、彼女はクスッと笑ってから続けた。
「ごめんごめん。なんか君が生きることを受け入れられてない感じだったから」
「いや、あの、俺……」
自分でも自分の戸惑いが不思議だった。
僕は生きたいと思ったのに。
何と引き換えにしてでも生きたいと思ったのに。
「……俺、結構無茶なことをしたんですよ」
「最期だと思って?」
その通りだ。
僕は最期だと思ったからこそ、あんなことをやってのけた。
ヒットアンドゴー。
蜂の巣を叩き落とした後で、怒り狂う蜂達と対峙するつもりなんて毛頭なかったのだ。
はたして僕は、僕の捨て身が産み出すであろう嵐と、向き合う覚悟が出来ているのだろうか。
「お前なぁ」
金髪の彼が呆れたように、でも強気に笑った。
「そんな深刻な顔してんじゃねぇよ!」
そんなこと言われても、と僕は自分が頑なになるのを感じた。
知らないくせに。
何も分かってないくせに。
が、彼は僕のその思考まで見透かしているようにニヤリと―――まるで「全部分かってるぞ」と言わんばかりの―――笑みを浮かべた。
「死ぬ気でやったところで、お前がやったのは憎い奴に喧嘩を売り、好きな子に告白した、その程度だろ?」
ぞわりとした。
正確に言い当てられたことにもそうだが、僕がやったことは結局その程度のことでしかなかったのだということに、僕は寒気を覚えた。
それだけだ。
僕はそれだけのことをするのに―――。
冷や汗がぐっと身体中を包もうとした時、黒髪の人が動いた。
あまりの滑らかさに、僕は呆然と見とれてしまっただけだった。
彼女はすっと立ち上がり、向きを変えた。
と、思った瞬間、振り向きざまの右ストレートが、ものの見事に金髪の頬に炸裂した。
見事に。
完全に不意をつかれたらしい金髪は驚いた表情でよろめき、あっさり尻餅をついた。
彼は目を丸くしながら、殴られた頬に手を当てて、呆然としている。
「……え?」
彼女はそれには答えず、ただ強烈に鼻を鳴らし、金髪から目を逸らした。
「気にしないでいいよ」
そう言いながら僕に向き直った彼女はさっきと同じ笑顔だった。
「君がやったこと以上に勇気がいることなんてそうそうないんだから」
僕が反応に窮していると、彼女は再び僕の前にしゃがみこんだ。
そしてすぐに手が延びてきて、ヒヤッと冷たい指先が僕の頬に触れた。
「大丈夫。君の覚悟は軽いものでも、意味のないものでもない」
手の温度とは裏腹に、目が相変わらず温かだった。
「君はよくやった」
なんでこの人たちは僕が何をやったのかまるで知っているように話すんだろう。
僕はやはり何も答えることが出来なかった。
言わなくてはならないことがあったかもしれないが、とにかく胸がいっぱいで、まともな言葉が何一つ形にならなかった。
とにかく、胸がいっぱいだったのだ。
黒髪の人はしばらく黙って僕を見つめていたが、その後手を引っ込めてクスッと笑った。
「で、どうだったの?」
「え?」
「「勝負」したんでしょ? 結果は?」
「えっと……」
「もちろん、恋の方だよ? 野郎同士の喧嘩になんか興味はないから」
僕は頬が弛むのを感じた。
彼女の物言いには遠慮がまったくなかったのだが、それがかえって心地よかった。
「……勝ちました」
「そう」
彼女はまた微笑み、すっと立ち上がった。
僕はその時ようやく立ち上がらねばいけないと感じ、身体を動かした。
地べたについた右の手のひらに鋭い痛みが走ったが、別段気にするほどのことではなかった。
「ごめんね、少年。私たち、もう行かなきゃ」
彼女の後ろで仏頂面した金髪が腕時計を見た。
「走れば間に合うぞ、ギリギリ」
「す、すみません、俺のせいで……」
「馬鹿、気にすんなよ。お前のせいっちゃそうだけど、まぁ大した用じゃないし」
金髪のフォローの仕方がいちいち間違っていて笑えた。
「それより、もう大丈夫だよね?」
見ると、頭二つ分ほど背の高い彼女は僕の目をまっすぐ見つめていた。
僕には分からなかった。
何をもって「大丈夫」と言えるのか。
不安が消えた訳じゃない。
迷いがなくなった訳じゃない。
これからどうするべきなんだろう。
僕には何が出来るんだろう。
迷いや不安、疑問は止めどなく溢れてくる。
僕は大丈夫じゃない。
多分、そうなることはない。
僕がそれを口にしようとしたその時、黒髪の人が質問をもう一つ、一つだけ付け加えた。
「君は生きていけるよね?」