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「……きゅーう」
(えっ……?)
聞き違いかと思った。
が、優の手にさらに力が入る。
「きゅーう」
僕は二度、三度と瞬きをした。
思考が追いつかない。
「きゅーう」
「ゆ、優……?」
肩に触れると、優はすっと身を引き、キラキラした目で僕を見つめた。
「まだ一秒残ってるよ?」
「え……?」
驚きがやってきて、そして通り過ぎていった。
じわりじわりと口元の筋肉に力が入る。
顔が勝手に表情を作っていく。
歯を食いしばる必要なんてなかった。
僕は声を上げて笑った。
なんの無理もなく、なんの嘘もなく。
「ありがとう」
優はにっこり笑った。
僕はしばらくその笑顔を見つめた後、半身だけ振り返り、エレベーターを呼んだ。
「……帰っちゃうの?」
「うん。ごめん。行かなきゃ」
「そっか」
優がすっと身を引いた。
(あ……)
「じゃあ、残りの一秒は私が預かっておくね」
風がヒヤリと冷たかった。
「……うん。お願い」
優は笑顔で僕を見ている。
僕はそれに応えようと頑張った。
多分、うまくいったと思う。
エレベーターが来た。
「……じゃあ、帰るな」
「うん。また明日」
僕はエレベーターの中に入り、ボタンを押した。
ガラス越しに、優が笑って手を振っている。
僕が「ああ、これでホントの最後だな」と思った瞬間。
優の表情が凍りついた。
それはネモが現れたり消えたりするのと同様、唐突な変化だった。
そこにあるのは恐怖だった。
彼女はその表情のまま、唇を「タケ」と動かし、こっちに歩み寄ってくる。
僕もはっと我に返り、「開」ボタンを押したが、もう遅かった。
閉じきった扉はもう開く素振りを見せない。
一瞬の静止の後、血が逆流するようなヒヤリとした感覚が走り、エレベーターが動き始める。
ガラスに両手とおでこを押し付けた優の唇がもう一度「タケ」と動き、吐息がガラスを曇らせた。
その顔が上昇していき、見えなくなる。
徐々に下がっていく鋼鉄の箱の中で、僕が見たのはここまでだった。
「……勘が良いな、あの娘」
ネモが後ろの壁に寄りかかっていた。
「……どうしたんだ?あいつ」
「お前の面を見て、嫌な予感がよぎったんだろ。「死を悟る」ってやつ?……まぁ、今頃「気のせいだ」ってことにして、家に帰ってるだろうけどな」
「……ふーん」
僕は一瞬、地面に押し付けられたように感じた。
なんてことはない。
一階についただけだ。