55
「そーいえばさ?」
僕は玄関の方に歩き出しながら言った。
「「軍資金」、そんなにもらってたわけ? さっきお金見せあった時には……」
「うん。ごめんね。隠してたんだ」
見ると、優はかなり申し訳なさそうな顔をしていた。
僕は別に怒る気はなかったが、その理由が知りたかったので首を傾げた。
「あのね」
優は少し急いで口を開いた。
「何となくなんだけど、今日はちゃんと二人で出かけたかったの」
優は一生懸命な目で続ける。
「二人に出来ることをやるっていうか、背伸びしないで、身の丈に合った一日を過ごしたかったっていうか……言ってること分かる?」
「分かるよ」
と僕は相槌を打った。
少なくとも、その雰囲気だけは掴めたような気がした。
彼女は借金をして遊び回るような、自棄になっているようなやり方を望まなかったのだ。
「……でも」
僕は言った。
「気が変わったんだ?」
「……うん」
彼女はいわゆる「軍資金」を使おうとしていた。それも徹底的に。
「……なんでかは分からないけど、この時を逃しちゃいけない気がして……」
僕は驚いた。
これが最後だと、優は無意識の内に悟ってしまったらしい。
とはいえまだ確信には至っていない。
僕は一度隠すと決めた以上、隠し通さなくてはならなかった。
負けたくはなかったのだ。
「……明日だってあるじゃん」
僕の嘘に、優は微笑んだ。
「そうだよね? その次も、その次も、そのまた次だってあるのにね?」
僕は心臓がドキリと鼓動するのを感じた。
そして、じわりと冷たい痛み。
自分の目に衝撃が走るのを感じた僕は、無理に視線を落とし、全神経を集中させて唇を微笑みの形にした。
「……そうだね」
玄関に着いた僕は足を靴に押し込んだ。
優はほとんど何も疑わずに、問い掛けてきた。
「どうする? 時間も場所も同じにしとく?」
「だね」
言葉がそれしか出てこない。
僕は目を逸らしたままだった。
とはいえ、彼女の顔を見ないままで終わらせたくはなかったし、僕は心を決めなくてはならなかった。
「……今日は……」
まだ見れない。
「ホントのホントにありがとう」
声は震えていない。
よし、よくやった。
そうして僕は初めて、顔を上げ、優の顔を直視した。
(……えっ……?)
僕は驚いてしまった。
「こちらこそ。ホントのホントに楽しかったよ」
明るい言い方が、声が、心配そうなその目を際立たせていた。
僕は心がうずくのを感じた。
「アハハ!」
自分の声が非常に奇妙に聞こえたし、突然の笑い声に優がぎょっとしたのも分かっていたが、僕にはそんなことを気にする余裕はなかった。
「どうしたの? 俺の顔になんかついてる?」
「……ううん」
彼女はまだ心配そうだった。
当たり前かもしれない。
しかし、僕はごまかすやり方を決めていた。
突然姿勢をただし、大仰なお辞儀をしてみせたのだ。
「では、長らくお邪魔いたしました! これにて失礼させていただきます!」
狙い通りだった。
僕のわざとらしい仕草に、優はクスリと笑ったのだ。
よし、これでいい。
僕はクルリと向きを変え、ドアノブを掴んだ。
ドアを開ける。
隙間を通り抜ける。
そしてその空間を再び閉めながら、優に笑いかける。
「じゃ、明日」
「うん」
笑顔の優のいる空間が細くなる。
優の輪郭が細くなる。
細くなる。
もっと細くなる。
消えた。
消えてしまった。