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「私のこと、名前で呼んで?」
「へ?」
僕は目を瞬かせた。
「名前?」
「そ。実は私、名字で呼ばれるのあんまり好きじゃ……。どうしたの?」
僕は完全に気が抜けてしまい、テーブルにうつ伏せにへたれこんでしまっていた。
「い、いや、何がそんなに気に食わなかったのかと思ってたら、そんなくだらないことで……」
「くだらなくないって!」
顔を上げてみて、草薙が少し顔を赤らめているのが分かった。
とはいえ、僕の中に生まれた若干のもやもやは晴れなかった。
いや、まぁ、隠しても仕方がないので、正直に言えば、多少、ほんの少し、ちょっとだけ、わずかに、かなり、ドキッとしただけだ。
ホントに。
僕はまた顔を伏せた。
「アーソーデスネー」
「何その反応?」
「意味はない」
ということにしておく。
しばらくそのままでいた後顔を上げると、草薙は僕を見つめたまま、じっと待っていた。
僕は一瞬息がつまるのを感じた。
「……その待ち方は卑怯だよ」
「え?」
抵抗出来ない上に、緊張が煽られる。
ただ名前を呼ぶだけのことが、とてつもない難題に思えた。
それでも、僕は彼女を落胆させたくなかった。
「……分かった。次からはそうする」
「次ぃ?」
草薙は不服らしい。
まぁそりゃそうか。
僕はみっともない言い訳を始める。
「……何の脈絡もなしに名前呼ぶとか……変じゃん」
しかし実際のところ、問題はそんなことではなかった。
まだ決心が出来ていなかった。
それは僕の中では、境界線を一歩またぐような行為だった。
多分、普通の奴なら、知らぬ間に通り過ぎてしまうような些細なことなのだろうが、僕にとっては特別だったのだ。
「……タケ?」
見ると、草薙が口元に微笑みを浮かべながら、首を傾げ、こっちを覗き込んでいた。
僕は勝ち目がないことを知りつつ、ささやかな抵抗を続ける。
「……何?」
「違うでしょ」
草薙はニコッと笑った。
「そこは「優、どうしたの?」って聞き返すところだよ?」
まいった。
勝てる気がしない。
それをこの時思い知らされた僕は、頬をぽりぽり掻きながら、顔を背けた。
「だからやり直し。タ~ケ?」
草薙は随分と楽しげだった。
釣られて僕も顔がにやけてしまう。
照れてる場合じゃなかった。
「……優?」
弱々しい、自信のカケラもない声だった。
僕は名前を呼ぶことより、そんな声を出すことの方がよほど恥ずかしいということに遅れて気づいた。
とはいえ直後、草な……いや、優、の笑顔がさらに明るさを増した。
僕はまた息を詰まらせ、身体の動かし方も忘れて彼女に視線を吸い付けられる。
「よく出来ました!」
僕が照れ、呆れ、苦笑いをごちゃまぜにした顔をすると、優はキラキラ輝く夏の水しぶきみたいな笑い声を上げた。