03
僕がうずくまっているちょうどそこに担任が入ってきた。
と言っても、救いにはならない。
二十代後半の彼は既に、理想を追うことより、賢く世を渡ることに目覚めていた。
彼は言った。
「斎藤……そんなとこで寝るな!」
彼はこの状況が分析出来ない程愚かではない。
只、賢く生きる上で、こうした「ちょっとした」問題には目をつぶった方が良い、というだけのことだ。
時田は僕を引っ張って立たせ、倒れた机のあるところに突き飛ばした。
また、クラスのほとんどが笑った。
担任は「危ないから気をつけろ」というようなことをぼそぼそ呟いた後、何事もなかったかのようにHRを始める。
僕は歯を食いしばり、なるべく音を立てないように机を戻そうとした。
が、同時にかばんを拾おうとしたのが間違いだった。
最後の最後で手が滑り、机が再び倒れて大きな音を立てる。
「静かにしろよ、このカス!」
顔が赤くなるのを感じた。
それを隠そうして再び机に手をかけると、今度は隣の女子が手伝ってくれた。
「草薙……」
「草薙さん!そんな能無し、手伝うことねぇぞ!!」
時田のせりふで皆が笑ったが、草薙は無表情だった。
彼女の協力で戻せた机の上に、ポケットティッシュが置いてあった。
不思議に思って窺うと、彼女はこっちを見ないまま唇をつついた。
(え?)
反射的に自分の唇をぬぐうと、血がついていた。
それで、もらったティッシュをありがたく使い、切れた唇を拭いた。
こんな日々が続いている。
疲れていた。
それ以外にしっくり来る言葉はない。
とても疲れていたのだ。
僕には、人が明日を待つ気持ちが理解できなかった。
明日にも同じ苦しみが続いていくことははっきりしているのだ。
僕に死ぬ勇気があれば、きっとそうしていただろう。
ただ僕には、それすらなかった。
流されるままだったのだ。
小さい頃、自分の道を歩いていた頃、そのときの気持ちは忘れてしまった。
殴られ、蹴られ、投げられた後、ようやく学校から解放された。
僕は誰よりも早く教室を後にした。
逃げる「ように」というのは間違いだ。
僕は教室から「逃げ出した」のだから。
駅のホームで電車を待っていると、すぐ隣に制服を着た娘が並んだ。
横目で見ただけでははっきりとは分からないが、どうやら同じ学校の生徒らしい。
電車が来た。
端の席に座ると、さっきの娘がすぐ隣に腰掛けた。
驚いて顔を窺うと、草薙だった。
「草薙!?」
「何だ、気付いてなかったの?」
草薙はにこりと笑ったが、直後にうつむいてしまった。
彼女こそ唯一の救いだ。
草薙 優は小学校からのクラスメートで、恐らく一番仲の良かった女の子だ。
中学に入ってから―――僕が時田に殴られるようになってから―――は、少し距離があったが、間接的に助けてくれていた。
「タケ……ごめんね」
「へ?」
目をそらされてしまった。
沈黙の中、電車の規則的な揺れと音が、いつまでも続いていた。
結局、いつの間にか彼女とはぐれ、一人の時間のほうが多かった。
地下鉄に乗り換えた後、僕はずっとうつむいていた。
窓を視界に入れないために。
朝より疲れた顔があるのは、分かりきっているのだ。
それをまともに見据える勇気は、僕にはなかった。