1話 肉じゃが
東京の路地裏にある小さな日本料理屋「和」
店主の神代敦はいつも通り開店準備を行っていた。
かつて高級料亭で腕を磨いたが、両親が亡くなってからはこの店を継いでいる。
派手さはないが、両親が大切に守ってきた場所で、地元の人に温かい料理を出す日々が、今の自分に合っていると感じていた。
毎朝の習慣は変わらない。朝日が差し込む店内で、神棚に手を合わせる。
「神様、今日もよろしくお願いします」
祈りを終えて立ち上がろうとした瞬間、
『青年よ。余は汝の祈りを常に聞いておる。そんな真面目な其方に頼みがある」
頭の中に重々しい声が響いた。
『先日、他界の神と酒を酌み交わした折、勢いに任せて約束を交わしてしまった。「向こうの世界の者たちにも、真に美味なるものを味わわせてやれ」と。余は「承知した」と答えてしまったのだ』
状況が呑み込めないまま話がどんどん進んでいく。
『故に、汝の店を一時的に繋げさせてもらう。向こうの民に、汝の料理を届けよ。言っておくが拒否は許さん。報酬はそのうちに。……以上だ。』
声は低く、威厳に満ちていが、最後にわずかにトーンが落ちた。
『……申し訳ない。酒の席とはいえ、軽率だった。許せ』
神代は一瞬固まり、額に手を当てた。
「なんだ今の?幻聴?にしては随分とハッキリ聞こえたというか……直接頭の中に話しかけられてるような.....疲れてるのか......30半ばになると身体にガタが来るってのは本当なのか...今度の休みに健康診断でも行ってみるかな」
目を覚ますように首を振り、開店準備再開する。
包丁を研ぎ、冷蔵庫を確認し、暖簾をかけようと外に出た瞬間――
景色が一変していた。
石畳の薄暗い路地。
遠くに中世風の建物が並ぶ。
曇った空。湿った土と古い石の匂い。
店はそのままそこに立っていた。
ただ、外が完全に別の世界。
「…………嘘だろ。ここ……どこだよ。店が……外が……どうなってんだ!?」
神代は慌てて扉を閉め、店内に戻った。
心臓が早鐘のように鳴り、手のひらが汗ばむ。
「落ち着け……スマホ圏外。外は異世界。あの声……本物の神様だったのか……くそ、信じられん…」
壁に寄りかかり、息を荒げた。
再び、重い声が頭に響く。
『慌てるな、青年よ。汝の店は日本にそのまま在る。それと、この世界で一日過ごしたとしても、お主が住む世界では数分の出来事となる。その辺りは気にするな』
神とやらはこちらの意見を聞く気もないらしく、どんどん説明を続けていく。
「この世界がお主の世界と繋がるのは、歴の始まりの深夜からだ。今回は余が強引に繋いだ。……これより、向こうの民を迎え入れ、料理を届けよ。以上』
神代は壁を軽く叩き、深く息を吐いた。
「もう訳が分らん……でも……事実として俺は今異世界にいる。神か何かわからんが、言ってることは本当なんだろう.....」
徐々に状況を理解することに務め、諦めと覚悟が混じった表情で立ち上がった。
「わかったよ。やるしかないんだろ……」
店内の明かりをつけ、暖簾をかけた。
異世界の路地裏に、日本料理屋が静かに開店した。
開店したといっても、この世界のことは何も知らない。とりあえず今日は店にあるもので作り置きがある程度効くものを作ることにする。
冷蔵庫に残っていたじゃがいも、牛肉、玉ねぎ、醤油、みりん、砂糖、酒。
神の力か知らんが、水やガスは普通に使えるらしい。なんと都合がいいことか。
「……これで十分だろ」
鍋に火をかけ、肉じゃがを作り始めた。
肉を炒め、じゃがいもと玉ねぎを入れ、醤油、砂糖、みりんで煮込んでいく。
甘辛い匂いが店内に広がり、路地裏まで静かに漂った。
神代は鍋をかき回しながら、独り言を呟く。
「本当にこれでいいのか……」
その時、扉が静かに開いた。
自分の世界では童話の中でしか出てこないような尖った耳をもつ少女。
神代は異種族の少女に一瞬息を呑んだが、すぐに首を振った。
「……あの、すみません。何か……食べ物を、お金、少しだけなら……」
格好も随分なものだが、明らかに俺が知っている人間という種族とは異なる。本当に異世界なのかここは....
「お客さんか。今日は食材の関係で一品しか作ってないから、それでも良ければ食っててくれ」
エレナは首を縦に振り、席に着く。
神代が丁寧に盛り付けて渡す。
熱々の肉じゃがが、湯気を立てて目の前に置かれた。
「肉じゃがだ。じゃがいもと牛肉、玉ねぎを甘辛く煮込んだ料理。こっちの人の口に合うかは分からないけど、食べてみてくれ」
エレナはスプーンを手に取り、まずは立ち上る湯気をそっと吸い込んだ。
醤油の香ばしい甘みと、牛肉の深い旨味が混じり合った匂いに、目が少し潤む。
最初にじゃがいもを口に運ぶ。
煮崩れそうなくらい柔らかく、味が芯まで染み込んだそれは、噛むとほろりと崩れて、じんわりと甘い旨味が舌に広がった。
まるで体が温まるような、懐かしい安堵感。
「これ……土芋……?こんなに柔らかくて、味がこんなに染み込んで……」
次に牛肉。脂が適度に溶け出し、醤油とみりんが絡みついて、噛むたびにじゅわっと肉汁が溢れ出す。
噛みしめるごとに旨味が層になって広がり、口の中が幸せでいっぱいになる。
「これは....角獣の肉!?柔らかくて、旨味が……溢れてくる……」
玉ねぎは甘くトロトロに変わり、全体を優しく包み込んでいた。
温かさが胃袋を優しく満たし、空腹で冷え切っていた体が、ゆっくりと解けていくようだった。
「……っ……美味しい……」
エレナの声が震える。
「こんな味初めてです。土芋が……こんなに優しくて甘くて……とっても美味しいです!」
神代は彼女の食べる姿を見ながら、少し落ち着いて話しかけた。
「それは良かった。こっちも作った買いがある。所で、食べているとこ悪いんだが、ここはどんな世界なんだ?俺は訳あってこの場所に連れてこられたんだが、文字も読めなければ。こっちの常識も分からずじまいでな。良ければ、少し状況を理解したい。教えてくれないか」
エレナは食べながら、静かに話した。
ここはアストリア大陸。魔法が存在する世界。
様々な族が共存する社会だが、人間、エルフとも言えず、種族数が少ないハーフエルフでは差別を受けやすく、エレナ自身もそれを理由にまともな仕事に就けないそうだ。
神代は静かに頷く。
「そうか……色々と大変なんだな」
ここで、神代は一つ提案をする。
「なあ、エレナさん。もしよかったら、給仕として手伝ってくれないか?匂いに釣られて来てくれたみたいだし、君はこの世界の常識を持ち合わせているから、客の対応もできる。飯は三食。すぐには出せないが、必ず給料も払う」
エレナは箸を止め、目を輝かせる。
「本当ですか!?ただ.....私のような者を雇ってしまうとお店にご迷惑をかけてしまうかもしれません」
神代は笑いながら首を振る。
「そんなことはないさ。それに人種で差別するような奴に俺は自分の料理を食べてほしくない。何より俺一人じゃ店が回らなくなる。エレナさんさえよければ、よろしく頼む」
「ありがとうございます!えっと....」
ああ、とうなずき神代は答える
「そうだな、俺のことは店長とでも呼んでくれ」
エレナは何度も頷くと、勢いよく肉じゃがを食べ始めた。
『よくやった。次も、期待しておるぞ。』
頭の中の厳かな声に、神代は小さく息を吐いた。




