第7話
その夜、私はパン工房の夫人と、その夫に同席して夕食をいただくことになった。
食卓に並んでいたのは、焼きたてのパンだった。
香ばしい湯気が立ちのぼり、籠の中にはさまざまなパンが並んでいる。
丸い食事パン、細長くねじったものや艶のある菓子パン。
濃い焼き色のものも、蜂蜜色のやわらかなものもあり、端には果実入りの小ぶりなパンまで添えられていた。
思わず目を奪われた。
「……すごい」
「せっかくですもの。うちのパンも食べていってちょうだい」
勧められるまま一つ手に取る。
やわらかな焼き色のついたそれをちぎると、ふわりと甘い香りが立った。
一口食べる。
「……おいしい……!」
「ハニーブリオッシュよ。うちの看板商品なの」
「看板商品……」
もう一口、今度はゆっくり噛みしめる。
甘い。
けれど、ただ甘いだけじゃない。
生地そのものがやわらかくて、口の中でほどける。
その時、ふと脳裏をよぎった。
――グラーフ伯爵家でいただいた蜂蜜パンも、美味しかった……。
あのときの温かな香りや、胸が落ち着かなかった空気まで思い出して、頬がわずかに熱くなる。
夫が、向かいで小さく笑った。
「美味しそうに食べるね」
私ははっとして姿勢を正した。
「し、失礼しました」
「いいよ」
彼は気にした様子もなく、パンをちぎる。
「それにしても、伯爵夫人の名で商会につながったんだって?」
「はい」
「へえ。それはすごいね」
夫人が横から口を挟む。
「せっかくだもの。少しはアドバイスしてあげてちょうだい」
「僕がしてもいいのかい?」
夫は肩をすくめながら言い、それからテーブルの端に置いてあった干し林檎を一枚つまんだ。
「干し林檎か」
そのまま口に入れ、二、三度噛む。
「うん。悪くない」
「あ、ありがとうございます」
「仕分けは、どうしてるの?」
「え……?」
「売り先ごとに分けてるのか、それとも一括で出してるのか」
私は少し考えてから答えた。
「パン工房向けと、贈り物向け、それから規格外で分けています」
夫はそこで小さく眉を上げた。
「それは、もったいないな。もっと細かく分けられるよ」
「細かく、ですか?」
夫は干し林檎を指先で軽く示した。
「形の揃ったもの、少し不揃いでも味のいいもの、最初から加工向けに回すもの。
同じ規格外でも、全部まとめてしまうのは惜しい」
私は思わず息を呑んだ。
――選別はしていた。
でも、その先をまだ使い切れていない。
「せっかく質を上げてるなら、全部を同じ値打ちで出すのは惜しいよ」
「……はい」
「品は一つでも、売り方は一つじゃない」
私は膝の上で手を握りしめた。
品質を上げることばかり考えていた。
その先でどう分け、どう見せるかは、まだ甘かった。
「ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
夫は少しだけ目を細める。
「礼を言うのは、売れてからでいいよ」
その時、夫人がくすりと笑った。
「明日はうちの店を見ていきなさいな」
私は思わず顔を上げた。
「お店、ですか?」
「ええ。どなたが何を手に取るのか。実際に見れば、参考になると思うわ」
胸の奥が、ふっと熱くなる。
「……はい。ぜひ、お願いします」
◆
翌朝、私は夫人に伴われて、王都の店へ向かった。
店先にはすでに何人もの客がいて、焼きたての香りが通りへ流れ出している。
木の看板を掲げた店構えは、白い塗り壁に濃い木の枠を合わせた、明るく清潔な造りだった。
大きく開いた正面の窓からは、焼き上がったばかりのパンがよく見える。
軒先には小さな黒板が立てかけられ、その日のおすすめが白い字で記されていた。
「ここよ」
夫人が扉を押し開ける。
店の中の正面にある売り台には、食事用の丸パン、艶よく焼かれた菓子パン、小さく包まれた焼き菓子が並んでいる。
香ばしい匂いの中に、甘い香りが混じっていた。
その中に、見覚えのある色が混じっている。
――干し林檎だ。
手前の籠には、小ぶりの丸パンが並んでいた。
表面はこんがりと焼け、ところどころに刻まれた林檎がのぞいている。
「これは……」
「朝のうちによく出るのよ」
夫人はそう言って、視線を店の入口へ向けた。
ちょうどその時、買い物籠を提げた女が二人の子どもを連れて入ってくる。
「丸パンを六つと、それから林檎のを二つ」
店の者が慣れた手つきで籠からパンを取り、紙に包む。
子どもの一人が嬉しそうに身を乗り出した。
「またそれにするの?」
「好きでしょう、これ」
私はそのやり取りを、黙って見つめた。
夫人がくすりと笑う。
「見たでしょう?」
「……はい」
「こういうのは、一度気に入ると繰り返し買うの」
視線を売り台へ戻す。
同じ干し林檎でも、奥の棚にはまた違う形で並んでいた。
細く編んだ生地の上に、艶のある林檎がきれいに並べられている。
さらにその隣には、小さく包まれた焼き菓子が置かれていた。
「こちらは、お茶の席や手土産用ね。見栄えがいいでしょう?」
「はい……こちらはまるで別物に見えます」
その時、今度は落ち着いた身なりの侍女が二人、店へ入ってきた。
一人は店の奥の棚を見て、もう一人に小声で何かを告げる。
やがて包み菓子の前で足を止めた。
「こちらを三つ。箱でお願いできますか」
「はい、もちろんです」
店の者はすぐに奥から小箱を出し、焼き菓子を薄紙で一つずつ包んでから、丁寧に詰めていく。
箱は淡いクリーム色の厚紙に、店の印を押した深緑の細紐が掛けられていた。
夫人が私を見た。
「手前の籠のは、日々のパン。奥のは、お茶の席や贈り物ね」
一拍置いて、夫人は続けた。
「置き方と包み方が変わるだけで、値段も、買う人も変わるわ」
私は黙って棚を見つめた。
確かに、こうして並ぶと全く別の品に見える。
「売り場も分けているのよ……見てごらんなさい」
夫人が手前の籠を示す。
「減るのは、まずここからでしょう?」
本当にその通りだった。
店へ入ってくる客の多くが、まず手前の丸パンに手を伸ばす。
その一方で、奥の棚の菓子パンや包み菓子は、選ぶ人の手つきが少し違った。
私は静かに呟いた。
「……手前は気軽に手に取りやすくて、奥のものは立ち止まって選ぶのですね」
夫人は頷いて棚へ視線を向ける。
「ね? 干し林檎は、もう暮らしの中に入り込めているでしょう」
商会で聞いた言葉。
昨夜の話。
そして今、目の前で動いている売り場。
ばらばらだったものが、ようやく一つに繋がった気がした。
「……はい」
「どうかしら。来た甲斐はあって?」
私は小さく笑った。
「勉強になりました」
店の中では、今日も人が出入りを繰り返している。
パンは減り、また奥から新しいものが運ばれてくる。
私はその流れを見つめながら、胸の奥でそっと思った。
――作るだけでは、足りない。
どう並べて、どう選ばれ、どう届くのか。
そこまで考えて、初めて品になるのだ。




