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都合のいい私を、辞めることにしました  作者: 福嶋莉佳
八章

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第5話

以前、王都にあるパン工房の夫人の屋敷を辞したときのことだった。


「侍女は?」


アーネストに問われ、私は一瞬だけ目を瞬いた。


「おりません」


「いない?」


「もともと家に侍女が少なくて……私一人のために連れ出すのは、難しくて」


アーネストの目がわずかに細くなる。


「ここまで、どうやって来た」


促されて、私は少しためらった。


「……乗合馬車で参りました」


短い沈黙が落ちた。


アーネストはすぐには何も言わなかった。


その沈黙が落ち着かなくて、私は慌てて続ける。


「昼前には着く便でしたし、人も多かったので……特に何事もなく」


「そういう話ではない」


思わず口を閉じた。


「誰も何も言わなかったのか」


「特には……」


言ってから、自分でも妙な気がして、言葉が細る。


家の馬車は使えない。

別に仕立てる余裕もない。

けれど、それを口にするのは、どうしてかためらわれた。


アーネストは小さく息を吐いた。


眉間に寄った皺が、少しだけ深く見えた。


「……そうか」


それだけ言って、しばらく黙る。


私は居心地が悪くなって、視線を伏せた。


「申し訳ありません。見苦しい話を――」


「君が謝ることではない」


ゆっくり顔を上げる。


「次からは、来る前に知らせろ」


「え……?」


「便の時間でも、到着先でもいい。分かっていれば、こちらで迎えを出せる」


「ですが、そこまでしていただくわけには……」


「遠慮の話をしているんじゃない」


ぴたりと遮られて、私は息を呑む。


アーネストは変わらない声で言った。


「無事だったからよかった、で済ませるつもりはない」


胸の奥が、きゅっと縮む。


叱られているわけではない。

それなのに、なぜか少しだけ泣きそうになる。


「……はい」


小さく返すと、アーネストはそれ以上追及しなかった。


――そういう話だったのに。


そして今、

王都へ向かう道中、私はグラーフ伯爵家が手配してくれた馬車に揺られていた。


王都までは数日かかる。

これまでは乗合馬車を乗り継ぎ、そのたびに荷を抱えて宿を探していたけれど、今回は違った。


泊まる場所も休む場所もあらかじめ整えられていて、私は示された通りに進むだけでよかった。

 

「こんなによくしていただいて……」


窓の景色を見ながら、私は小さく息を吐いた。



王都へ着いてすぐ、私は仕立て屋へ向かった。


表通りに面したその店は、磨かれた木の扉と控えめな金文字の看板が目を引く、上品な店構えだった。


重厚な扉をくぐると、乾いた木の匂いに、ほのかに花を思わせる香りが混じっていた。


「いらっしゃいませ」


店の者が丁寧に一礼する。


「先日、ドレスを仕立てていただいたエリナと申します」


名を告げると、相手は一度頷き、帳面を確かめる。


「エリナ様でございますね。どうぞこちらへ」


奥へ案内され、落ち着いた椅子へ腰を下ろした。


「本日は、その折のお支払いに伺いました」


そこまで言うと、店の者は一瞬だけ目を上げた。


「……お支払い、でございますか?」


「はい。まだでしたので」


相手はもう一度帳面へ視線を落とし、確かめるように頁を繰る。

そして、すぐに顔を上げた。


「失礼いたしました。こちら、すでにお支払いは済んでおります」


「……え?」


「グラーフ伯爵夫人よりお預かりしております」


「……え?」


思わず、同じ言葉がもう一度口から落ちる。


店の者は穏やかに続けた。


「ご注文の際に、そのようにと承っております。今後、同様のご用向きがございましたら、そちらも夫人のご指示に従うよう申し付かっております」


「……そう、ですか」


かろうじて、それだけを返す。


店の者はやわらかく微笑んだ。


「先日の装い、大変よくお似合いでございました」


「あ、ありがとうございます……」


小さく頭を下げて、私は店を出た。


背後で扉が閉まる音が、やけに大きく響く。


歩き出しても、足取りは重い。


訪れるまでとは違う意味で、胸の奥が静かに沈んでいた。


――支払うつもりで来たのに。


「……はあ」


立ち止まり、胸元から手紙を取り出した。


――グラーフ伯爵夫人からの紹介状。

王都の商会宛てのもの。


これでは、グラーフ伯爵家におんぶに抱っこだ。


しばらくそれを見つめていたが、

小さく首を振った。


「……違う」


視線を落とす。


「ここまで、お膳立てしていただいたんだから……成果を出さないと」


顔を上げ、手紙をしまって歩き出した。



王都商会の建物は、通りの中でもひときわ目立っていた。


荷を抱えた者や帳面を片手に走る者が忙しなく行き交い、その脇には積み上げられた木箱がいくつも並んでいる。


足を止め、見上げる。


「……ここね」


小さく息を吸い、扉をくぐった。


中は、外ほどの騒がしさではない。

けれど空気は張り詰めていて、忙しさは途切れていなかった。


声が飛び交う。


「三番倉庫へ回せ」

「数量、十七で合ってるか」

「記録は昨日分とまとめろ」


荷の確認や指示、数字を読み上げる声が重なる中、人々は無駄のない動きでそれぞれの仕事をこなしていた。


その一角に立つ男が、こちらに気づいた。


「……何かご用で?」


帳面からようやく視線を上げて言う。


私は一歩進み、頭を下げた。


「お忙しいところ、失礼いたします」


胸元から手紙を取り出す。


「グラーフ伯爵夫人からのご紹介で参りました」


男の手が、わずかに止まった。


「……伯爵夫人の?」


手紙を受け取り、素早く目を通す。


それから、顔つきが変わった。


「こちらへどうぞ」


先ほどとは違う声色で言う。


奥へと案内される。


――扱いが違う。


胸の奥が、静かに引き締まる。


通された部屋は、先ほどの喧騒が嘘のように静かだった。


濃い木目の机に、肘掛けのついた椅子。

壁際には書棚が置かれ、帳面と箱が整然と並んでいる。


「少々お待ちください」


そう言って、男は一礼し、部屋を出ていく。


程なくして、扉が軽く叩かれる。


「失礼いたします」


入ってきたのは、先ほどの男とは違う人物だった。


年の頃は四十前後。

シンプルな仕立ての上着に、よく手入れされた革靴。

装飾は控えめだが、布地や仕立ての良さが一目で分かる。


一歩で分かった。


――この場の責任者だ。


「お待たせいたしました」


静かに一礼する。


「王都商会で取りまとめをしております、ローデンと申します」


私は立ち上がり、頭を下げた。


「エリナと申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」


ローデンは軽く頷き、席を勧めた。


「伯爵夫人からお話は伺っております。干し林檎を扱われているとか」


「はい」


私は用意していた包みを取り出した。


「こちらを」


布を解き、皿へ移す。


薄く乾いた林檎が、光を受けてやわらかく色づいた。


ローデンはそれを一瞥し、指先で一枚摘まむ。


――迷いがない。


しばらく観察し、それから口に運ぶ。

ゆっくりと噛み、飲み込む。


……長い。


無意識に指先に力が入る。


やがて、ローデンは口を開いた。


「……確かに。甘みが強い」


視線がこちらに向く。


「乾燥のみで?」


「はい。……この甘みは、領地の条件によるところが大きく、同じようには再現しにくいかと」


「なるほど……量は?」


「現在は二棟で――いえ、三棟目を増設中です」


ローデンは、わずかに眉を動かした。


「……増やすつもりがある、と」


「はい。需要があれば、さらに体制は整える予定です」


ローデンは椅子に背を預けた。


「では、試しに動かしてみましょう。まずは少量で。継続するかは、その後です」


「その場合――運搬や保管についても、ご相談させていただくことは可能でしょうか」


ローデンは、ほんの一瞬だけ表情を変えた。

それから、わずかに口元を緩める。


「……ええ。その点も含めて、こちらで調整いたしましょう」


「ありがとうございます」


私は深く頭を下げた。


ローデンはその様子を一瞥し、静かに言う。


「商いは、紹介だけでは続きません」


私は顔を上げた。


「品と、供給。その両方が揃って、初めて続きます」


「……はい」


「ですが、伯爵夫人が名を出される理由は分かりました」


そう言われ、自然と背筋が伸びる。


ローデンは穏やかな声で言った。


「楽しみにしておりますよ」

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