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都合のいい私を、辞めることにしました  作者: 福嶋莉佳
七章

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第2話

執務室の扉が叩かれた。


昼前から続く書類仕事はまだ片付いていない。

アーネストは視線を紙面に落としたまま言った。


「入れ」


そう答えると、扉が静かに開いた。


「旦那様」


執事が一礼する。


「伯爵夫人様がお見えです」


ペンが一瞬だけ止まった。


「……母上?」


「はい。突然お越しになられまして」


アーネストは小さく息をつく。


「通してくれ」


「かしこまりました」


執事が下がる。


数秒後、扉が再び開いた。


「アーネスト」


「……母上」


グラーフ伯爵夫人は、まるで散歩の途中のような顔で部屋に入ってくる。


「突然だな」


「近くまで来たのよ」


さらりと言う。


近く、という距離ではないはずだが、そこを指摘しても意味はない。


伯爵夫人は部屋を見回しながら椅子に腰掛けた。


「お父様は?」


「屋敷よ」


「そう」


つまり、父は置いてきたらしい。


アーネストは小さく息をついた。


「用件は」


「顔を見に来ただけよ」


侍女が紅茶を運んでくる。

伯爵夫人はそれを受け取り、機嫌よくカップを持ち上げた。


「最近忙しいのでしょう?」


「いつも通りだ」


母はしばらく息子の顔を眺めていたが、ふと思い出したように言った。


「そういえば」


アーネストはペンを動かしながら答える。


「何だ」


「ヴィオラ嬢」


ペンが一瞬だけ止まった。

だが、すぐに動き出す。


「何度か会っているのでしょう?」


「……ああ」


「いい子じゃない」


アーネストは視線を上げない。


母は紅茶を一口飲む。


「あなた、どう思っているの?」


「悪い娘ではない」


伯爵夫人は小さく笑った。


「それ、いつもの言い方ね」


「事実だ」


「家柄も問題ないし、礼儀もきちんとしているわ」


少しだけ首を傾げる。


「母としては悪くないと思うのだけれど」


アーネストはペンを置いた。


「急ぐ話でもない」


伯爵夫人は「そう?」と軽く言った。


「急がなくていい年でもないでしょうに」


その時、扉が再び叩かれた。


執事の声がする。


「旦那様。エリナ様がお見えです」


一瞬だけ沈黙が落ちた。


アーネストの眉がわずかに動く。


伯爵夫人はカップを持ったまま首を傾げた。


「どなた?」


「客だ」


執事は扉の外で返事を待っている。


伯爵夫人は面白そうに息子を見る。


「通すのでしょう?」


アーネストは一瞬だけ母を見た。


「……ああ」


それから扉に向かって言う。


「通せ」


「かしこまりました」


執事の足音が遠ざかる。


伯爵夫人は紅茶を口に運びながら言った。


「客が来る日に母が来てしまったのね」


「偶然だ」


「ごめんなさいね。お邪魔だったかしら」


アーネストは書類を閉じた。


「別に」


伯爵夫人は椅子に深く座り直す。


「では、私はここにいても構わないわね」


アーネストは何も言わなかった。


母は小さく笑う。


「どんな方かしら」


その時、廊下から足音が近づいてきた。



執務室の前で、私は小さく息を整えた。


手の中の籠を握り直す。


中には、料理人に焼いてもらった干し林檎の焼き菓子と、

袋に入れた干し林檎。


……ちゃんと話せるかしら。


胸が少し落ち着かない。


その時、横に立っていた執事が静かに扉を叩いた。


「エリナ様がお見えです」


中から低い声が返る。


「通してくれ」


執事が扉を開いた。


「どうぞ」


私は小さく頷く。


「失礼します……」


そっと中へ入り、一礼して顔を上げる。


まず目に入ったのは、執務机の向こうのアーネストだった。


思わず、頬が緩む。


「グラーフ伯爵――」


そこで気づいた。


机の横の椅子に、見知らぬ女性が座っている。


落ち着いた色のドレスに、柔らかな金色の髪をゆるくまとめている。

年齢よりもどこか愛らしく見える人で、楽しそうな目がまっすぐこちらを見ていた。


その女性は――にこにこと手を振っていた。


「……」


私は目を見開いた。


え?


体が固まる。


……誰?


「……エリナ嬢」


アーネストの声がした。


私ははっとして姿勢を正す。


「あ、あの……失礼いたしました」


慌てて一礼する。


視線を上げると、アーネストがこちらを見ていた。


ほんの少しだけ、困ったような顔をしている。


そして静かに言った。


「こちらが、エリナ嬢だ」


女性は嬉しそうに立ち上がった。


「はじめまして」


私は慌ててもう一度頭を下げた。


「エリナ・フォン・リュークハルトでございます」


女性は楽しそうに笑った。


「わたくしはアーネストの母よ」


私は固まった。


……母?


一瞬、頭が真っ白になる。


伯爵夫人?


えっ?


アーネストは小さく息をついた。


「母上」


「なあに?」


「エリナ嬢が困っている」


伯爵夫人は楽しそうに笑う。


「そう?」


それから私に向き直った。


「ごめんなさいね。突然いて驚いたでしょう?」


私は必死に言葉を探す。


「い、いえ……!」


頭の中がまだ追いついていない。


籠を抱えたまま、私は立ち尽くしていた。

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