5、一番目に好きなもの
大陸暦三四〇年三月一二日。ワプティア平和条約が締結されたその夜、帝都の空には平和を祝う花火が咲き乱れた。しかし、その翌一三日午前十時、条約が発効した瞬間に訪れたのは、死のような静寂だった。
波に揺られる船の上、アンドレアは水平線を凝視していた。 潮風が目にしみる。
条約の発効は、リソスフィアへ、そして前線の隅々へと、魔法の伝達手段で瞬く間に伝えられた。数時間前まで剣戟が止まなかったリソスフィア地峡では今、兵士たちが武器を置き、代わりに深い溜息と、拭いきれない敗北感を噛み締めているはずだった。
「……見て、アンドレア」
オスカーが指差す先、霧の向こうに、大公国第二の都市プシロフィトンの尖塔が見えてきた。豊な自然と大公国の民族文化を育んだリソスフェアの中心地。
かつてその街には、大公国の誇りである紺碧の旗が翻っていた。しかし、船が近づくにつれ、アンドレアは見てしまった。尖塔に掲げられていた旗がゆっくりと降ろされ、代わりに帝国の黄金の旗が、勝者の傲慢さを誇示するように掲げられていく様を。
大公国は、国土の十%を失った。それは単なる面積の数字ではない。何世代にもわたって培われた人々の暮らし、故郷の墓地、そして自分たちが自分たちであることの証が、紙切れ一枚の条約によって帝国の手に渡ったのだ。
港の近くを通る際、街を出る避難民の姿が点々と見えた。家財道具を詰め込み、泣き叫ぶ子供を抱えた人々。彼らは国家の独立という尊い名分のために、自らの日常を差し出した犠牲者たちだった。
オスカーの拳が、船の欄干を白くなるまで握りしめられていた。
「……これが、平和の代償。守り抜いたはずの国の、本当の姿よ」
オスカーの瞳に、悔し涙が滲む。かつて戦う道具だった彼女が、アンドレアに弱さを見せる。彼はその震える拳に、自分の手を重ねた。
「僕たちは、その代償を一生忘れてはいけないんだと思う。……僕も、帝国での名前も家も、すべて置いてきた。君と同じだよ」
父からの手紙が思い出される。
「僕は僕の正義を選んだ。それがたとえ、故郷を裏切る道だったとしても」
船が陸地から離れると、帝都の喧騒も、割譲地の悲鳴も、遠い潮騒の中に消えていった。 潮風で冷えた体を温めるため、二人は狭い船室に戻った。
「そうだ。ロレンツォが気を利かせたのか、荷物の中にヴァレニエが入っていたんだ。良かったら一緒に舐めないか?」
銀のスプーンで、鮮やかな真紅の砂糖漬けを掬い上げる。揺れる船室のランプの下で、それは宝石のように輝いた。アンドレアはそれを、オスカーの口元へ運ぶ。
彼女は迷わず、それを口に入れた。二度目の甘み。今度は、驚きではなく、静かな安らぎが彼女の表情に広がった。
「……美味しい。やっぱり、甘すぎるのは嫌いじゃないわ」
オスカーは小さく笑った。彼女が自分の意志で浮かべた、初めての微笑みだった。
「これ、帝国のもので二番目に好きなものになったよ」
「二番目?」
アンドレアが問い返すと、オスカーは少しだけ顔を赤らめ、視線を逸らした。
「……一番目は、まだ教えてあげない。いつか、私の国が本当の平和を取り戻した時にね」
船は朝日を浴びて進んでいく。これから向かう大公国は、決して楽園ではない。奪われた領土、疲弊した民、そして明日をも知れぬ過酷な再建の日々が待っているだろう。
かつて観覧席から他人の人生を眺めていた少年は、もうどこにもいない。自分の手で血を流し、故郷を捨て、選ぶはずのなかった戦列に加わった。その重さは、いまも右手の痺れとして残っている。
「……行こう、アンドレア」
隣に立つ騎士が、彼の名前を呼ぶ。その声が、今は唯一の道標だった。
口の中に残る、甘くて、どうしようもなく苦い平和の味。それは、数えきれない犠牲の上に成り立つ、ひどく脆い約束の味だ。
振り返ることはしない。アンドレアは、血の跡が消えない右手で、オスカーの温かい手を握り返した。水平線の向こうには、凍てつくような冷たさと、それでも自分たちで選び取った不確かな明日が広がっていた。




