4、英雄の追放、父が捨てた愛
返り血を浴びた長官室。ラウロの遺体から流れる血が、豪華な絨毯の模様を塗りつぶしていく。勝利の余韻はなく、ただ重苦しい沈黙が二人を包んでいた。
その静寂を切り裂いたのは、拍手の音だった。
「実に見事だ。期待以上の幕引きだよ、アンドレア君、オスカー君」
入り口に立っていたのは、秘密警察副長官ロレンツォだった。彼は血の臭いが充満する部屋にありながら、まるで観劇でも終えたあとのように涼しげな顔をしていた。
「ロレンツォ副長官……、終わりました。これで平和条約は締結されます」
アンドレアが震える声で告げると、ロレンツォは氷のように冷たい微笑を浮かべた。
「ああ、終わったとも。ラウロ長官は、平和条約に反対する暴漢――すなわち君の手によって、皇帝陛下の寝室に間近い宮殿の一室で暗殺された。そして、その暴漢は長官殿の忠実なる部下、ロレンツォによって現場で処刑された。それが、これから帝国が発表する真実だ」
「……何だって?」
アンドレアの血の気が引いていく。
「いいかい、アンドレア君。帝国は死体を愛さない。ましてや、不祥事を起こした高官を裁くような醜態は晒さないのだよ。平和の祭典を血で汚した英雄は、政府にとって邪魔なだけの不純物なんだ。君が正義を貫けば貫くほど、君の存在は帝国の平穏にとって有害になる」
ロレンツォの言葉は鋭く、アンドレアが守ろうとした国家というものの正体を露わにしていった。
「君は立派な犯罪者だ。それも皇帝陛下の宮殿に武器を持って侵入し、皇帝陛下の信任厚い政府の高官を暗殺した、第一等の反逆者だ。だが……」
ロレンツォは一歩踏み出し、アンドレアの頬についていたラウロの返り血を白いハンカチーフで拭う。
「君には私の手間を省いてくれた恩義がある。長官の椅子を空けてくれた礼だ。……十数年後、人々の記憶から君の名が消えた頃には故郷に戻れるよう手配してやろう。それまでは、国外で隠れていたまえ。君の御父親も、君が死ぬことで家が守られることを望んでおられるよ」
それは慈悲の形をした追放だった。アンドレアの家、身分、そしてこれまで歩んできた人生のすべてが、この瞬間に剥奪された。
「アンドレア……」
オスカーが、呆然と立ち尽くす彼の肩を、強く、そして温かく抱き寄せた。彼女の体温だけが、今の彼にとって唯一の確かな現実だった。
「行きましょう。ここにはもう、あなたの居場所はない。……でも、私の国には、あなたの席があるわ」
深夜、ロレンツォの配下によって極秘裏に港へと運ばれたアンドレアの手には、革袋と一通の手紙が握られていた。
手紙の主は、帝国貴族である彼の父だった。
「貴様を我が家から勘当する。二度と敷居を跨ぐことは許さん。名も、誇りも、すべて捨てて野垂れ死ぬがいい」
走り書きされた文字は、ひどく震えていた。 アンドレアにはわかった。これは父なりの、精一杯の愛なのだと。
父はロレンツォと取引をし、息子を死んだことにする代わりに、実家への連座を防ぎ、かつ息子が追っ手に狙われないようにするための、血を吐くような決別の書を書いた。その手紙の裏には、父が愛用していたインクが、一滴だけ涙のように滲んでいた。いや、それはインクではなく、父が耐え切れなかった涙の跡だ。父は息子を捨てることで、息子を自由にしたのだ。
「……勝手だな、大人は」
アンドレアは呟き、手紙を小さく破り捨てた。視界が涙で歪む。
大公国へと向かう船が、夜の港を静かに離れる。 甲板に立つアンドレアの隣には、簡素な旅装に身を包んだオスカーがいた。
「アンドレア、これからの私の国も、過酷な代償を払って大変だけど……。君のその、真っ直ぐな手を借りたいな」
彼女の言葉は、かつての冷徹な戦う道具のものではなかった。一人の人間として、共に地獄を生き抜こうとする相棒への信頼だった。
「……、僕に何ができるかわからない。でも、観覧席に座って人の人生を眺めるだけの生活は、もう終わってしまった」
遠ざかっていくワプティアの灯。そこには、明日発効される平和条約を祝うための花火が、打ち上がっていた。 その光は大公国の領土割譲という犠牲の上に咲く、偽りの美しさだった。
アンドレアは、血の跡が消えない自分の右手に、オスカーの温かい手が重ねられるのを感じた。
歴史家や国民にとって、このワプティア平和条約は大公国にとって平和のための敗北と見なされるだろう。軍事的な敗北を受け入れ、領土の代償を払うことで、大公国は西の連合の介入という不確実な道を避け、独立国として生き残るという最良の結果を得た。




