1、崩れる観覧席
帝国首都ワプティアは、夕暮れ時に最も輝く姿を見せる。大理石の建物は西日に焼かれ、まるで街全体が黄金で鋳造されたかのようだ。
リソスフェア地峡の戦場で激しい戦闘が続くなか、この地において帝国と大公国の間に、平和条約が結ばれようとしていた。
大公国の代表団にとってこの調印は屈辱的であり、苦渋の選択だったが、彼らは大公国の独立を守るために帝都までやってきたのであった。
十七歳のアンドレアは、宰相府の地下深くにある記録保管庫で、古い公文書の束と格闘していた。窓から差し込む光に当たって、何十年も積み重なった埃がキラキラと黄金色に踊っている。彼にとって、この黄金の空間こそが平穏な人生の象徴だった。
「……先の王朝の地籍調査。これもあっちの棚か」
アンドレアは溜息をつき、羽ペンを置いた。彼は歴史だけは古い貴族家の出身という資格だけで、見習いとして宰相府に出仕していた。
幼い頃、この宰相府も隣接する皇帝の宮殿も、彼にとって巨大な遊び場だった。入り組んだ廊下、隠された扉、忘れられた秘密の通路。彼はそのすべてを、一人でしていた鬼ごっこの逃げ道として記憶している。
前線で騎士たちが雪にまみれている間も、彼は帝都で温かい紅茶を楽しみながら書庫に閉じこもり、地図上の赤い線が少し動くのを、まるでチェスの勝敗でも眺めるように見守っていた。
廊下に出ると、同僚たちが談笑していた。彼らもまた、戦争の悲劇を対岸の火事として楽しんでいる特権階級の若者たちだ。
「聞いたか? 大公国の使節団が今日、ワプティアに入ったそうだ」
「ああ。あの北の蛮族どもが、震えながら条約にサインしに来たわけだ。今頃、陛下の御威光に腰を抜かしているだろうよ」
「そろそろわからせてやるべきなんだ。文明というものをね」
高笑いが響く。彼らにとって平和条約とは、勝利の確認作業に過ぎない。しかし、アンドレアの胸には、整理していた古い公文書から得た知識が、小さな棘のように刺さっていた。――大公国は、かつて一度も完全に征服されたことがない。
「平和条約、か……。それで一体なにが変わるのだろう」
アンドレアはつぶやいた。戦争が終われば、この退屈な日常が永遠に続くのか。それとも、何かが決定的に壊れてしまうのか。彼には、窓の外に広がる帝都の美しさが、危うい均衡の上に立っているように感じられた。
その予感は、唐突な轟音によって現実となった。
突然の爆発音が響く。
腹の底を揺さぶるような振動。直後、宰相府の三階部分が火を吹き、ステンドグラスが内側から弾け飛んだ。美しい色彩の破片が、雨のように降り注ぐ。
「な、なんだ!? 爆発か!?」
同僚たちの嘲笑が、一瞬で悲鳴に変わった。黒煙が廊下を支配し、熱風がアンドレアの頬を焼く。帝国の平和条約を拒む過激派か、あるいは大公国の抗戦派の仕業か、それとも大公国の戦争を望む西の連合の工作か……。考える猶予はなかった。
「逃げろ!」と叫ぼうとした瞬間、上空から不吉な軋みが聞こえた。
天井に吊るされた、重さ数百キロはあろうかという巨大な水晶のシャンデリア。爆風で支えを失ったそれは、逃げ遅れたアンドレアの真上から、逃れようのない死の質量となって落下を始めた。
アンドレアは動けなかった。網膜に焼き付くのは、無数のクリスタルが夕日に反射して輝く、残酷なほどの美しさ。彼は死を覚悟し、静かに目を閉じた。
「――死にたいの? ぼんやりしないで!」
鋭い声と共に、右腕を強烈な力で引かれた。体が宙に浮くような感覚。直後、背後で凄まじい破壊音が響き、砕けたガラスの破片がアンドレアの背中を打った。
冷たい床に転がされ、アンドレアは恐る恐る目を開けた。そこには、一人の少女が立っていた。
夕暮れの残光が、割れた窓から差し込み、彼女の姿を逆光で縁取っている。 緑色の仕立てのいいドレス、乱れた金髪。そして何より、アンドレアを射抜いたのは、ステンドグラスの破片の反射を映し出した虹色の瞳だった。
彼女は、自分が守ったばかりの少年の顔を覗き込み、冷徹な、しかしどこか憐れむような視線を向けた。
「怪我はない? 帝国の坊や」
その声には、ワプティアの若者たちが持つ軽薄さなど微塵もなかった。それは、幾千もの死線を越えてきた者だけが持つ、重く、鋭い戦場の響きだった。
アンドレアは声が出なかった。燃え盛る宰相府、瓦礫の山、そして目の前の凛々しい少女。 彼が今日まで守ってきた観覧席の日常が、この凄惨で鮮烈な出会いによって、音を立てて崩れ去った瞬間だった。




