影
俺は、ただのヒラ刑事だ。
捜査会議では発言権もない。現場では、鑑識の邪魔にならないように立っているだけ。
それでも、あの部屋に入った瞬間──何かが、違った。
被害者は、20代女性。
ワンルームのアパート。鍵は内側からかかっていた。
死因は絞殺。争った形跡はない。
だが、部屋の空気が妙に澄んでいた。
まるで、誰かが“掃除”した後のような、異様な静けさ。
「換気扇、止まってますね」
鑑識が言った。
スイッチは入っていたが、電源が抜かれていた。
冷蔵庫も、コンセントが抜かれていた。
音を、消している。
犯人が、意図的に。
「時計、止まってます」
壁掛け時計の針は、午後三時を指したまま動かない。
電池は抜かれていた。
──時間を、固定している。
俺は、背筋に違和感を覚えた。
誰かに見られている──そんな感覚。
振り返っても、誰もいない。
部屋には俺と鑑識しかいないはずだった。
被害者の首には、細い絞殺痕。
布のような繊維が皮膚に残っていた。
鑑識は「ポリエステル系の細紐」と言った。
スカーフでもロープでもない。
柔らかく、静かに、確実に絞めるための道具。
「手、硬直してますね」
被害者の右手は、何かを握っていたような形で固まっていた。
だが、何も持っていない。
指の形が、何かを“掴んでいた”記憶を残しているようだった。
「スリッパ、揃ってます」
玄関のスリッパが、左右対称に並べられていた。
几帳面な被害者?
いや、第一発見者は「いつも脱ぎっぱなしだった」と証言している。
──誰かが、整えた。
犯人が。
空間を“演出”している。
俺は、部屋の照明に目を向けた。
天井の蛍光灯は消え、間接照明だけが点いていた。
柔らかい光。
死の空間にしては、あまりに美しい。
「この部屋、妙に静かですね」
鑑識の言葉に、俺は頷いた。
静かすぎる。
まるで、誰かが“音”を消したように。
捜査本部に戻ると、会議室ではすでにホワイトボードに“犯人像”が書かれていた。
「冷静沈着」「計画的」「力のある男」──そんな言葉が並ぶ。
俺はその文字列を見て、ふと違和感を覚えた。
それは、まるで“誰かが望む犯人像”のようだった。
「侵入経路は?」
俺が訊くと、鑑識が答えた。
「鍵は内側から。窓も施錠。侵入痕なしです」
「じゃあ、どうやって?」
「……わかりません」
俺は、現場写真を見返した。
スリッパの向き。
時計の針。
照明の色。
手の形。
──全部、整っている。
──全部、演出されている。
だが、犯人は“何も残していない”。
指紋も、足跡も、繊維も。
ただ、空気だけが“異常”だった。
俺は、報告書の文末にこう書いた。
「現場の空気は、異常なほど静かだった」
その言葉が、後に俺自身を追い詰めることになるとは──
この時は、まだ知らなかった。




