第 3 話 水の精霊王との邂逅 その2
誰もが食われたと思い目を背けた……
だが青年は食われていなかった。代わりに火竜が纏っていた炎が消え、力なく地面に倒れていた。
その光景はありえないものだった。この世界では強者を誇るドラゴンが、無力そうな青年にやられた……いったい何が起こったのか、誰も理解することができなかった。
「き、貴様!!いったい何をした!?」
呆然と立っていた担任も信じられない様子で、青年の胸倉を掴み問い詰めた。
「うるさい……黙れ」
「どうやったんだ!!」
青年は担任に胸倉を掴まれると、秀麗な眉をより一層深く寄せた。青年は苛立ちを覚えていた。
「うるさい!!!」
担任は気がつくと、近くに生えていた木に貼り付けられていた。まるで見えない力で拘束されたかのように、身動きが取れない状態だった。
「な、なんだ!?これは」
「しばらくそうしておけ……」
担任はゴチャゴチャと何事かを叫び続けていた。それを青年は視線だけそちらに向けると、足取り軽やかにレオの元へ寄ってきて、精霊界では最高の礼を取った。
「……ずっと呼んでくれるのを待っていた……」
「へっ?僕、何も知らないよ!?」
あまりの状況にレオは驚愕する。周囲の視線を諸共せず、青年は慈愛に満ちた眼差しを向けた。
「懐かしいな。レオは昔、空を飛んでいる私に声をかけていたな……」
過去を振り返るように、青年は遠い目をした。
「……っ!!あっ、あの時の……綺麗な人!!」
レオは暫く思案顔を作り、納得したかのように手をポンと打った。記憶の奥底に眠っていたものが蘇ってきた。
「思い出したのか!あの時は私に向かって――」
「わっ、わわ!!わっ――わっ――!!」
レオは大声を出して青年の声を遮った。
やばい!何で覚えているんだ、こいつは!!
「と、ところで貴方は何者なんですか?水の精霊は命令して素直に聞く精霊じゃないのに……」
レオは一番不思議に思ったことを聞いた。
「ああ、簡単だ。私が水の精霊王だからだ……王の言葉は絶対聞かなければならないから……改めてになるが、私はシルクスと言う。そなたと契約により馳せ参じた」
何でもないというかのように、酷くあっけらかんと答える青年――シルクス。
「あっ、僕はレオ・ウィリアム・スパナです」
名乗られたからには自己紹介をするようにと、母から口が酸っぱくなるほど聞かされ続けたレオは、恐縮しつつも名乗った。
目の前の青年……シルクスが王なら納得がいった。水の精霊は精霊の中では珍しく王を立てると聞く。気まぐれの精霊は精霊王の言葉さえも聞かないものも多いと聞くが、水の精霊は王という概念の強い精霊なのだ。
「何かあったらすぐに呼んでくれ……神風より早く来るからな……」
そう言いながら、シルクスは木に拘束されている担任を睨んだ。その視線には、今後の警告も込められていた。
「わ、分かったよ……」
レオはシルクスの険しい表情にぎこちなく頷いた。それを見たシルクスは笑って立ち上がり、恭しく頭を下げて姿を消した。
青年が消えた後、しばらく誰も口を利かなかった。生徒達は呆然としており、担任は木から解放されて地面に座り込んでいた。
そして水の精霊は、これから人を選ぶようになったのは言うまでもなかった……
シルクスが消えてからレオを見る視線が痛かった。教室の空気は重く、生徒達の囁き声が耳に刺さる。
「あの落ちこぼれが水の精霊王を…」
「まさか本当に…」
「信じられない…」
張り付けられたように固まっていた担任はというと、金縛りから解かれたかのようにガクリと膝をついた。駆けつけた生徒達から支えてもらいながら、震える手で額の汗を拭っている。その顔は青白く、先ほどまでの威厳は微塵も残っていなかった。
すると騒ぎに気づき、はち切れんばかりの腹をたゆんたゆん揺らしながら校長がやってきた。少し歩くだけで息が上がり、珠のような汗を流している。その肥満した体躯は魔法学園の権威を象徴するかのような立派なローブに包まれているが、今は汗でべっとりと肌に張り付いていた。
「はぁはぁ…ふぅー…いったい何が起こったんだね!!教師ともあろう者がムキになり、使い魔を呼び出すとは何事か!!そして呼び出した使い魔は倒れているではないか!!」
校長の怒声が教室に響く。この学園では生徒との闘いの場、生徒の関わるところでは緊急時以外絶対に使い魔は出してはいけない決まりなのだ。それは生徒の安全を守るためでもあり、教育的配慮でもあった。
「こっ校長…ちっ違うんです!!これには訳がございまして…」
担任は支える生徒達の手を振り払いながら胸に手をあてる。その声は震え、普段の厳格な教師としての威厳は完全に失われていた。倒れた使い魔-巨大なドラゴン-は微かに息をしているものの、意識を失ったままだった。
「お前の言い訳は聞き飽きたぞ!!」
唾を飛ばしながら怒鳴る校長と必死の形相の教師との言い合いに、生徒達は呆然としていた。教室の空気は緊張で張り詰め、誰も声を出すことができずにいる。レオは教室の隅で小さくなりながら、この騒動の原因が自分であることを痛感していた。
「…レオよ、いったい何が起きたんだ?」
埒があかないと判断した校長は担任の話は聞こうとせず、レオに聞いた。その小さな瞳には「またお前だろう」と訴えるような光があった。校長の視線は厳しく、レオの心臓は激しく鐘を打った。
「僕にもよく分からないんです…ただ…水の精霊を呼び出しただけで…そしたら水の精霊王が現れて…」
レオの声は小さく震えていた。自分でも何が起こったのか理解できずにいる。ただ、普通の水の精霊を呼ぼうとしただけだったのに。
「水の精霊王?」
校長はハンカチで汗を拭きながら、ひん剥く勢いで目を見開いた。その表情には驚愕と、そして僅かな畏怖の色が浮かんでいる。水の精霊王-それは伝説の存在であり、この数百年間、人間の前に姿を現したことはなかったからだ。
「はい!そして担任が不審者と思い、色々言い合って…今に至ります」
レオの説明を聞きながら、校長の顔色はみるみる青ざめていく。もしも水の精霊王を怒らせてしまったら、この都市は水の恩恵を失うかもしれない。それは死活問題だった。
「そうか…不審者と思うのも仕方がないかもしれんが、お前は水の精霊王の魔力が分からなかったのか…?」
校長は担任を睨みつけながら問いかけた。強力な力を持っている精霊は魔力が満ち溢れている。本人は抑えているかもしれないが、ちょっとした緩みですぐに魔力が溢れることが多いのだ。経験豊富な教師なら、その圧倒的な存在感に気づくはずだった。
「…えっと…気づきませんでした」
担任は冷や汗を流しながら目を泳がせる。実際のところ、あの瞬間は動揺しすぎて何も判断できなかったのだ。美しい青年の姿をした存在が突然現れ、生徒と親しげに話している光景に、教師としての職務が優先してしまった。
「そうか、そうか、それは仕方がないことだな。キミは後で校長室に来なさい…命令だ!!」
やっと汗の引いた校長は、これ以上生徒達の前での醜態を晒さぬよう、担任を呼び出すことにした。その声には押し殺した怒りが込められている。
「はい…了解しました…」
生徒達でも校長が怒りを押し殺しているのがわかった。無理もない。水の精霊王を怒らせたり、機嫌を損ねさせた場合、水の恩恵を強く受けているこの都市では火を見るより明らかな災いが降りかかるからだ。何よりも水の精霊を呼び出せなくなる可能性もある。
今まで、どの精霊王もあまり人間と関わることはなかった。ましてや、水の精霊王なんて誰もお目にかかったことがなかった。それを、魔法学園始まって以来の【落ちこぼれ】が召喚したのだ。それだけで生徒達は呆然としていた。クラスメイト達の視線がレオに注がれ、その中には羨望、嫉妬、そして恐れが混じっていた。
「さあ、君達は早く家に帰り、明日からの準備をしなさい。明日はアウリシェルの森 に入らなければならないからよく眠るんですよ…1年後また会えると良いですね…」
校長は手を叩き、視線を向けさせ、生徒達に言い聞かせるように言い終わると踵を返した。教師の腕を密かに掴みながら。その表情には深い憂慮が刻まれている。
明日から始まるアウリシェルの森 での修行は、魔法学園の伝統的な儀式だった。1年間森で過ごし、使い魔との契約を結んで戻ってくる。それは魔法使いとしての第一歩なのだ。