【夏のホラー2025】雨
雨が降っている。
彼はその日も自宅の一階で、雨が落ちて来る音を楽しみながら、お気に入りのコーヒーを飲んでいた。
彼は雨が好きだ。
ザーッと降る音も、ポツポツと降る音も。
特に、屋根から流れ落ちて来て、庭の色んな物にカン、コン、と当たる水音が好きだ。
まるで、自然が作り出す音楽の様で。
彼は雨が好きだ。
気温が低い日に窓を開けると少しヒンヤリとした空気を感じられるのも、気温が高い日に窓を開けると特に湿っぽい空気を感じられるのも好きだ。
なにか、自然がグッと身近になった様で。
コーヒーを飲みながら目を閉じて雨の音を聴いていると、時たま、おかしな音が混じる事に気付く。
耳を澄ましてみる。
いつも聴いている、ザーッと降りしきる雨の音とカン、カン、コン……と鳴る水音の中に、ズチャ……と、濡れた土を踏む様な重い音が偶に混ざる。
目を開ける。
開けた窓の外に目をやると、雨が変だった。
なにか……降っている雨の強さと、音が……合致しない様な気がする。
妙な気分だ。気持ちが、とても悪い。
家の外の雨や水の音だけでなく、家の中の水音、全てが耳に届いている感じだ。
台所の蛇口から水滴がシンクに垂れる、タン……タン……という音。
風呂に張ったままの水に水が垂れるピチョン……という音。
玄関に置いた水槽のゴポゴポという音。
このままだと気が触れてしまいそうだ。
彼は、雨が降る外へ裸足で飛び出した。
雨は降り続ける。
彼は雨の中を、走る、走る、走る。全速力で、走る。
足下はずっとコンクリートなのに、あの音が追いかけて来る。
ズチャ……ズチャ……ズチャ……と。
後ろから聞こえてくる。
彼の頭の中は恐怖でいっぱいだった。
しかし足を止めて、勇気を出して、パッと後ろを振り返る。
音の正体を、探ろうと振り返った。
そこにあったのはなんと、見慣れた己の家。
彼はもう、既に気が触れていたのかも知れない。
雨の中を走り続けていた筈なのに、実際には、外に出た時から一歩も動けてはいなかった。
彼が呆然と立ち尽くしていると、あの音が聞こえてくる。
ズチャ……ズチャ……と。
家の中から。聞こえてくる。
彼は一旦、自分をどうにかこうにか落ち着かせて、その音が何処から鳴っているのか、改めて耳を澄ます。
するとどうやらその音は、風呂場の方から鳴っている様だ。
彼は、心底恐怖した。
外から家の中を、彼は恐怖しながら凝視する。
やがて、部屋の奥、廊下を曲がって現れた異形を見て彼は更に恐怖した。
それは顔も身体も、全てがドロドロに溶けたような人間の様な真っ黒の何かだった。
ズチャ……ズチャ……と音を鳴らしてこちらに近づいて来る。
外に居るのに、雨以外の水音がどんどんと大きくなる。
それはまるで、大都会の喧騒の様に。頭の中に響いている。
異形との距離はもう、1メートル程だ。
家の中、部屋の中から彼を見下ろしている。気がする。
響き続ける様々な水音の中、この世のものとは思えない声が聞こえた。
『あなたをぜったいにゆるさない』
彼は雨が好きだった。
しかし今、雨は止んでいる。
彼はハッとした。
気が付くといつもの部屋の中、コーヒーを片手に座っていた。
彼は雨が好きだった。
嫌なものを洗い流してくれる様な気がしていたから。
風呂場の方から来る、嫌な臭いも洗い流してくれる様な気がしていたから。
雨が止んだ今、家は静寂に包まれている。
幻覚か、それとも夢か。それは分からないが、あの異形はもう居ない。
彼は雨が嫌いになった。
初めて異形を見たあの日から、毎日あの異形を夢に見る。
それはいつも決まって、風呂場から現れる。
そして彼の首を絞めようと近付いて来る。
水の中に頭を入れられて、溺れそうになる夢を毎日見た。
彼は雨が嫌いになった。
雨音と水音を聞く度に、あの時の嫌な感触を思い出す様になってしまったから。
雨の匂いを嗅ぐ度に、あの時の嫌な臭いを思い出す様になってしまったから。
彼は今、安心してコーヒーを楽しんでいる。
風呂場は釘と板で塞ぎ、何も出て来れないようにしたから。
窓を閉め切り、シャッターを閉めて、雨が降っても見えない様にしたから。
耳にはイヤホンをし、音楽を大音量で流して、何の音も聞こえない様にしたから。
だから彼は安心しきっている。
水は他の場所にも有る事を失念して。
家の中に音が響く。
玄関の方から音が響く。
ズチャ……ズチャ……と。
家の中に声が響く。
この世のものとは思えない声が響く。
『おなじように……してやる』
彼は雨が好きだった。
かつての彼女も。
了