フクロオオカミはオオカミじゃない
ーー先生、タスマニアタイガーって知ってますか?
カミオカキョウコは、黒眼がちのその目で、私をじっと見つめながら、そう言ったのだ。
キョウコは私のゼミの学生だった。
「タスマニア、タイガー……ということは、それは虎なのか?」
「虎ではないのです」
彼女は、スマホを手早く操作すると、その画面を私に見せた。
古い白黒の動画だった。
たしかに腰のあたりに虎のような縦縞があるが、虎と言うよりむしろオオカミに似た見た目の獣が、檻の中を所在なさげに行ったり来たりしていた。デフォルメされたように大きく裂けた口からは、舌がのぞいている。
「前世紀までオーストラリアに生息していた生き物ですが、もう絶滅したと言われています」
「そうなのか?」
「はい。不確かな目撃情報は今もあって、まだ生きているという学者もいますが」
「へえ……」
「和名は、フクロオオカミです」
「ああ」
と私は納得した。
「やっぱりオオカミなんだ」
「いえ」
とキョウコは首を横に振った。
「フクロオオカミはオオカミじゃありません」
「フクロオオカミなのに、オオカミじゃない……よくわからないな」
私がそういうと、キョウコは丁寧に説明をしてくれた。
生物学上の分類で言うと、フクロオオカミは有袋類という種類になる。有袋類といえば、カンガルー、コアラなど、子供を腹の袋の中で育てる動物たちだ。これらはオオカミや、犬や猫や、そしてヒトもそこに含まれる真獣類とは、進化の過程で一億年前に分岐した、まったく違う範疇の生き物なのだった。
「でも、フクロオオカミっていうだけあって、オオカミそっくりだと思うんだが……」
と私は疑問に思ったことを口にした。
「そんなに違う分類の生き物が、なんでこれほど似ているんだい?」
「収斂進化です」
と、キョウコが言う。
「しゅうれんしんか?」
「はい」
まったく違う種の生き物が、それぞれ、自分の置かれた環境に適応するために進化していった結果、形態が非常に似てくることが、自然界にはしばしばあるのだという。その良い例が、例えばサメとイルカ、魚竜など、これらはみな、海という環境で生きて、泳いで、獲物を捕らえるために進化していったために、細部は違うのだけれど、全体のフォルムなどはたいへんよく似ている。別々のところからスタートしても、目的のために、合理性を追求すると同じようなものができてくると言うことだろうか。
「オーストラリア大陸には長く真獣類が入りこめなかったので、その代わりに有袋類がさまざまに進化して、他の世界での獣に見かけがよく似た動物がいろいろいるのです。フクロオオカミ、フクロネズミ、フクロモグラ……」
「ふうん、そうなのか」
説明をきいて、面白いものだとは思ったものの、キョウコが唐突にそんな話題を出してきた理由はよくわからない。
ましてや、今この状況で。
「それはいいから、君ははやく帰りなさい」
思わず会話を交わしてしまったが、我に返って私は言った。
ここは私の独り暮らしのアパートで、私は今大学を休んでいた。
例の感染症に罹ったのだ。はじめは寒気がして、師走の寒波にやられて風邪を引いたかなくらいに思っていたのだが、その後どんどん熱が上がり、検査をしたところ陽性だった。大学から出勤停止を申し渡された。他人に感染させるリスクがあるためだが、そもそも猛烈な身体のだるさで気力が減退し、頭もなんだかぼんやりして考えもまわらず、とても講義などできる状態ではなかった。
アパートでぐったり横になっているところに、いきなり来訪者があり、それがキョウコだったので、私は驚いたのだった。どうやってここがわかったのか。
「カミオカ、私のことは大学から聞いてるだろう。用事があるなら出勤してから聞くから」
少し開けたドアの隙間からそう言って追い返そうとした。しかし黒いダウンのコートを着たキョウコは、まるで小さな獣のようにすばやい動きで、するりと中に入りこんでしまったのだ。
まずい。いろいろな意味でこれはまずい。
「ダメだって言っているだろう」
私はキョウコを押し出そうとしたが、力が入らず、眩暈もして、押し出すはずの自分がよろけ、ふらふらと寝床に倒れ込んだ。
「大丈夫ですよ、先生。私はコロナには罹りません、むしろ……」
キョウコが私を見下ろして、自信に満ちた声で言う。
むしろ?
何を言おうとしたのか、しかしキョウコはその言葉をつづけず、肩にかけていた大きな赤いバッグの中から、ステンレスの水筒を取りだした。
「先生、栄養がつくものを用意してきました」
まわりを見回し、勝手に流しに行くと、マグカップをみつけてさっと洗い、そして水筒の中身を注ぐ。
「はい、どうぞ」
「いや……ん?」
マグカップを満たした、スープのような黄色い液体。
口元にカップをさしだされて、反射的に断ろうとした私は驚いた。
匂いが……。
匂いがする。
感染の症状として、嗅覚と味覚を障害され、今の私は臭いと味がまったく感じられなくなっていた。コーヒーもただのお湯だ。食べ物もみな泥のような感覚で、食欲はひどく減退していた。
ところが、キョウコの差し出した黄色い飲み物からは、甘い匂いがした。これはなんの匂いなのだろうか、食材が思い当たらないが、とにかく匂いがそこにあったのだ。
私はその匂いにそそられるように、カップに口をつけた。
とろりとした液体をすする。
薬膳のような特別なスパイスだろうか、舌と鼻腔を刺激する甘い匂いと味が口中に広がった。
「う……うまい」
私は貪るようにスープを飲み干した。
キョウコは微笑むと、カップに液体をつぎ足す。
何杯もお代わりをして、私はとうとう、水筒を空にしてしまった。
「ああぁ……ふうぅ……」
身体に滋養が染みわたるようだ。
「ありがとう……」
私はカップをキョウコに返した。
キョウコは、マグカップの縁から垂れている滴を、ピンクの舌でペロリとなめた。
「こちらこそ」
と言った。
空きっ腹にスープがしみこみ、腹のあたりがぽかぽかしてきて、それはしだいに熱いかたまりとなり、だるさと億劫さでこの間暖房も点けられず、息が白く見えるほど冷え切った部屋にいるにもかからわず、私の身体全体は熱をもち、汗の粒がうかんだ。
それと同時に、なんだか妙に眠くなってきた。
頭の芯がぼうっとなり、気を抜くと意識を失いそうになる。
いや、これはなにかおかしいのではないか?
そんな考えが頭をよぎったが、ああ、だめだ、思考がまとまらない。
私はとうとう目をとじた。
キョウコがなにか言っている。
「……ねえ、先生。フクロオオカミはオオカミじゃない。よく似ているけど、違う生き物……」
キョウコの声がまるでなにかの歌のように、私のおぼろげな意識の中にひびいている。
「そんなふうに、ヒトによく似ているけどヒトじゃない生き物が、この世界にいるかもしれない……」
ふふふっとキョウコが笑った。
「この感染症は僥倖でした……ウィルスに感染したヒトの精液は、種族の壁をこえられる……」
「なんだって? なにをいっている?」
聞き返す私の声が遠くから聞こえる。
「絶滅寸前だったんですよ」
キョウコが、嬉しそうに言う。
「ありがとう、先生」
そこから先は覚えていない、キョウコの白い指が、汗だくの私の胸にふれて。
※ ※
ちょうど大学が冬休みに入る時期だったため、カミオカキョウコが行方不明になったことが明らかになったのは、ずいぶん後だった。女子大生の失踪は、事件性があるのではないかとメディアでも大きく報道された。
それによると彼女のアパートには何もなかったそうだ。彼女がそこで暮らしていたことを示すようなものはなにも。
いや、ひとつだけ残されていたものがあった。それは、ボロ布のようにすりきれてしまった毛布が一枚。毛布からは、強い獣の臭いがした。孤独な女子大生が、アパートでこっそり捨て猫でも飼っていたのではないか、そんな風に記事は伝えていた。
しかし、それ以上のことは何も分からないまま、次々に起こる大きな事件の中で、カミオカキョウコの失踪は忘れ去られた。
半年ほど経ったある日、私は、見知らぬアドレスからのメールを受けとった。
本文が何もないそのメールには、一本の動画が添付されていた。
それは、たぶん女性のものと思われる、白くたおやかな手を写したものである。
広げられた掌のうえに、小指の長さより小さい、なにか肌色をしたものが三つ、載せられていた。
画面がズームする。
大きな頭と、小さな手足をもった、人間の胎児のようなそれは、もぞもぞと身体を動かし、そして小さな口を開けた。ピンクの舌がみえた。
楽しんでいただけたでしょうか。今年もよろしくお願いいたします。