第2話
「おっ、ぅぇええおお……ゲホッ、がはぁ!!!」
苦しそうに身体を丸めたり、伸ばしたりしながら、悍ましい声を上げて用意されていた桶にセーモは何度目になるかも分からない吐き気に襲われて吐き出した。
ダリアとの契約書にサインをした翌日から、薬剤の実験体としての生活が始まった。両親であるキュリテ伯爵達に無理やり同意書にサインを書かされたその夜、セーモは不安に包まれていた。しかし、
「だ、大丈夫ですよセーモ様!! 仮にもダリア様は貴方様の妻なのです。危険な薬をセーモ様に飲ませる筈がありませんわ!!」
「そ、そうだな。その通りだ。」
愛人であるゼーリアからの言葉で落ち着きを取り戻す。愛想がなく、仕事しか取り柄のない女でも、夫に酷い仕打ちをする筈がないと…安心したセーモはそのままゼーリアと愛し合い、深い眠りについたのだった。
その考えは甘かったのだと、思い知ったのは翌日の事だった。
「…やっぱり、この薬は強いのね。拷問の為とはいえ、話をする体力が一気になくなってしまうと急ぎの案件では使えないわね。」
ダリアはセーモが苦しむ姿を眺めながら話す。周りに居た研究員はダリアの言葉を聞いた後に各々の作業に取り掛かり始める。ダリアから吐き気を催す薬だと渡され、拒否を示すも無理やり飲まされたのが約30分前だった。少し気分が悪い、気持ち悪いと感じ始め、徐々に嘔吐感が強くなり地獄のような苦しみがセーモを襲っていた。
「はぁっ、はぁっ、がっ…はぁぁぁっ!」
「セーモ、吐き気止めの薬を投与しますね。飲むのは無理でしょうから、注射でお願いね。」
ダリアは苦しみ、悶えるセーモにそう言うと、研究員に指示を出す。セーモは薬を投与されると暫くは苦しんでいたが、そのまま意識を失った…。
◇◆◇
「ダ、ダリアいい加減にしてくれ!!」
セーモが実験体にされるようになって3日目の昼、セーモはダリアの自室に入ると叫んだ、しかしその声は何処か弱々しくも感じた。ダリアは机の上にある書類の山に目を通し、何かしらのサインをしていた。セーモの事を見る事はなく、書類から目線を外す事はなかった。
「セーモ、今私は業務処理の真っ最中です。話があるなら後にして頂けますか?」
「そ、そんなものは後でも良いだろう! 今すぐ話をしろ!!」
「…私が今やっている業務は貴方の威厳や立場を確保する為の業務なのですよ? それを“そんなもの”、呼ばわりするのですか?」
ダリアは書類から目線をセーモに移す。セーモは一瞬言葉に詰まるも、すぐに首を横に振りダリアと向き合った。
「た、確かに重要な事ではあるが、それよりも大事な話があるだろう!?」
「へぇ〜…一体それはどのようなお話なのですか?」
「わ、私へ投与する薬についての事をだ!! もう、こんな仕打ちは耐えられない、いい加減にしてくれ!!!」
セーモの顔はやつれていた。初日は吐き気を催す薬だったが、翌日は痛覚を上げる薬を投与された。痛覚の確認の為に服の上から鞭を振るわれた、皮膚が裂けたのではないかと思うほどの激痛が襲いかかったにも拘わらず、肌を確認するとうっすらと赤みが増しているだけであった。結果としてセーモの身体に後遺症も傷もないものの、セーモの精神は限界だった。
「薬剤の被検体が楽である筈がありません、貴方もご存知でしょう? 理由はどうあれ、今までも実験体となってくれた人々がいるから薬の技術は発展してきたのですよ。」
お金がないから、薬の未来の為にと自ら志願する者もいれば、罪を犯した者が罪を軽くする為に、もしくは無理やり罰と称して投与された者もいた。こうした実験がなければ薬が世に回る事はないのだった。
「だから何なのだ!! 私は夫なんだぞ!! 投与する薬が拷問の為の薬ばかりではないか、そもそも薬の実験体として夫にこのような仕打ちをするなど可怪しいではないかぁ!!!」
ダリアの言葉に怒り、憎しみをぶつけるようにセーモは叫ぶ。
「まだ2回目ではありませんか、本日は栄養剤を投与する予定ですのよ。飲むとすぐに疲労感が軽減される薬です。しかし副作用の確認が出来ていない為、貴方に協力して頂くのですわ。」
「そ、そんな話を「そもそも。」…!?」
言い返そうとしたセーモの言葉をダリアが遮った。
「“夫にこのような仕打ちをするなど可怪しい”? …では、妻である私にしようとした事は可怪しくはないのですか? 公爵家と薬剤の仕事だけでなく、自分自身の仕事を押し付け、浮気をしたにも関わらず、自分の都合のいいように私を利用しようとしたではありませんか。
それに、私は実験体になる事を強要してはおりませんよ。その前に、離婚をしたくないという貴方の為に、もっと平和的な条件を提案していましたわよね? それを拒否したのは、貴方ですよセーモ。」
ダリアの口調は普段と変わらないように思えたが、その瞳は冷たく、射抜くようにセーモを睨みつけていた。セーモはビクッと身体を震わせる。
「…どうしても実験体を辞めると言うのであれば、離婚するしかありませんわね。」
「そ、それは…っ。」
セーモの顔が青くなる。離婚してしまえば、もうセーモに居場所はない。キュリテ伯爵達はセーモが離婚し、伯爵家に戻る事を許さない。追い出されて路頭に迷うか…奴隷のように扱われるか…何れにしても碌な目に遭わないだろう。
「…り、離婚はしない……それは、出来ない。」
「では、今夜もよろしくお願いしますね。」
淡々と言葉を紡ぐダリアに、セーモは絶望するしかない。セーモは膝をついて項垂れる。
「…なぜ、何故私がこんな目に遭うんだ……。」
何故も何も、さっきも言ったではないかとダリアは思いながらも愚かな夫を見下ろした。
「私はただ、ゼーリアを愛しただけだ………それの何が悪いというんだ!!」
その言葉に、ダリアは何かを閃いたかのように口元をニヤリッと歪めた。
「…仕方ありませんわね。妥協案を出しましょう。」
ダリアの言葉に項垂れていたセーモは、ぱっと顔を上げた。何かしらの希望に縋るように…。
「条件は一つです。貴方が本来やるべき仕事を今後は貴方がして下さい。勿論、引き継ぎ期間は設けますのでご心配なく。」
「…私の、仕事、だけなのか?」
「はい、公爵家と薬剤の仕事は私が今後も処理します。しかし、貴方が本来やるべき業務を完璧にこなせるようになるまでは、実験体として協力して頂きます。」
「そ、それは…っ。」
離婚しない為の最初の条件では、公爵家と薬剤の全ての業務を今後はセーモが処理するという内容であった。今回はセーモ自身が本来やるべき仕事を処理するというだけなのだ。真面目にやれば2週間でも充分覚えられる内容だ。そもそも、セーモの業務であるのだから。精神的に追い詰められているセーモは引き継ぎについては何も文句がなかった。しかし覚えるまで実験体としての日々が続くという事に、素直に頷く事が出來なかった。
「む、無理だ。あんな事をされ続けていたら、とても業務に集中できない! ちゃんと引き継ぐから実験は無しにしてくれ!!」
「それは出来ません。」
「な…お、お願いをしているんだぞ!? それに、業務をすると言っているんだ!! それなのに酷いではないか!?」
セーモの言葉に呆れ果て、久方ぶりの溜息をダリアは吐いた。
「はぁ……私は妥協案を出して差し上げているというのに悪者みたいに言うのですね…では、さらに提案致しましょう。」
ダリアは立ち上がり、机から離れるとセーモの傍に寄る。セーモは警戒したようにダリアを見つめた。
「―――…。」
ダリアの言葉に、セーモは目を丸くしたのだった――。