第1話
「ダリア…私はゼーリアを愛してしまったのだ。」
「ご、ゴメンナサイ…ダリア様!!」
「………。」
向かい側のソファに並んで座り、目線をそらしながら話す夫のセーモ。そして涙目で謝罪をしてくる女性…もとい夫の不倫相手のゼーリア・モアをダリアは睨みつけた。
メデリア公爵家は最先端の薬剤を手掛けることでも有名で、王国において重要な貴族であり、その家の名を知らぬ者は存在しなかった。そんなメデリア公爵家の娘、ダリア・メデリアは数年前に結婚をした。夫のセーモはキュリテ伯爵家の次男であり、婿入りの形で入籍した。伯爵家であったセーモの身分はダリアより下ではあったが、キュリテ伯爵家も薬剤に携わっていた。薬剤を手掛ける貴族の数は少なく、今後の薬剤の発展をより良くする為の政略的な結婚だった。メデリア公爵家は結婚相手が貴族であれば誰でも良いと言えるほどの余裕があり、身分が揺らぐ可能性はなかった。そして、キュリテ伯爵家としても長男が後継者であった為、伯爵家の存続に次男は不要であった。そんな次男がメデリア公爵家の一員になれば、メデリア公爵家との繋がりができ、キュリテ伯爵家の地位や名誉が向上すると考えたのだった。
そんなある日、ダリアがセーモの自室へ向かおうとした先の廊下で、セーモが男爵家の令嬢、ゼーリアと抱き合いキスする瞬間を目撃してしまった。ダリアの存在に気が付いた2人は少し慌てた様子を見せたが、言い訳をしたところで通じないと分かったのか、観念したように話し合いに応じ、今に至ったのである。
「それで、どうなさるおつもりですか? もう二度と浮気をしない、モア令嬢と会わないと言うのですか?」
「っ、それは無理だ! あり得ない!! 言っただろう、私は彼女を心から愛しているんだ!!」
「セ、セーモ様ぁ!!」
ダリアの言葉に直ぐ様反論をするセーモ。そして、そんな彼にしなだれかかるように触れるゼーリア。ダリアはそんな2人を暫く見つめると溜息を吐いた。
「……そうですか、では仕方ありません。離婚の手続きをしましょう。」
そうなればやることは一つしかないと言わんばかりに、ダリアは離婚の同意書を持ってくる為にソファから立ち上がったのだが…
「ば、バカを言うな!! 離婚などする筈がないだろう!!!」
そんなダリアに、セーモも立ち上がり反論した。
「……私、一夫多妻は認めないと結婚の際に言いましたわよね? 政略的な結婚とはいえ、条件を出していた筈ですが。」
「ダリア、私の妻は貴女だけだ。ゼーリアの事は愛人として寄り添っていくつもりだ。」
「………モア嬢の意志はどうなのです? 貴方が勝手に決める事では…」
「いいえ! 私はただ、セーモ様が愛してくだされば、傍に居られればそれで良いのです。この話は既に了承済みですわ!!」
「あぁ…ゼーリア、本当にすまない。だが私は永遠に君を愛し続けるよ。」
「セーモ様ぁ…、はいっ!!」
見つめ合う2人に対して、ダリアは腕を組み、改めて2人を睨みつけた。
「愛人ならば構わないとでも…? そんなの認められませんわ。何故、離婚に応じないのか理由を伺います。私は今すぐにでも離婚いたしますよ…それ相応の慰謝料は頂きますが。」
「慰謝料だと? 何て事を言い出すんだダリア!! 離婚など絶対にしない! …これは、貴女の為だ。メデリア公爵家の人間が離婚した等と言われたら、肩身が狭くなるではないか!! 貴女自身だけでなく、公爵家の事を考えるんだ。」
「私は別にその程度の事など気にも致しません。我が公爵家はその程度で揺らぐような家ではありません。」
「貴女という人はっ……そもそも貴女は愛想が無さすぎる! 強がるのは良いが度が過ぎれば生意気としか見られないのだぞ!! …そんな性格で愛される筈がないではないか!!」
セーモはダリアの態度に逆ギレをし、ダリアへの不満を吐き出し始めた。仕事ばかりで女らしさがない、愛想がない、まるで浮気したのはダリアが悪いのだと言うかのように。
「ならば尚更、私の事など気にせずにさっさと離婚に応じて下さい。」
「っ、とにかく離婚には応じないぞ!!」
喚くセーモを見つめながら、ダリアは暫く黙っていたが呆れたように溜息を吐いた。
「…貴方が応じなくとも、我が公爵家の力を使い、裁判を行えば離婚は可能です。貴方は私と結婚している今だからこそメデリア家の人間ではありますが、元々は伯爵家の人間なのですよ。そして、今回浮気をしたのは貴方であり、私に対して不満があろうが私には非がありません。どちらが有利かなど考えるまでもありませんよね?」
「ダ、ダリア!! 言って良いことと悪いことがあるぞ!!!」
「そ、そうですわ。ダリア様、冷静になってくださいませ!!」
「…ところで、モア嬢。先程からずっと気になっていたのですが親しい間柄でもないのに、何故私の名前を呼んでいるのです? 私の事はメデリア公爵夫人と呼んでください。」
「ひ、酷いですダリア様!!」
「ダリア!! いい加減にしろ!」
呼び方の指摘は真っ当なものなのに、酷いやら、いい加減にしろだと訳の分からない反論をされた。そもそも好き勝手言っている者達が、良いも悪いも、冷静もないだろうと呆れるダリア。しかしダリアはその事を口に出さず、ある提案をする事にした。
「でもまぁ、確かに愛人も認めない、とハッキリ言わなかった私にも非はあるかもしれませんね……そうですね、条件を呑んでくださるならば離婚はしません。」
「なに!?」
ダリアの言葉に嬉しそうに目を輝かせるセーモ。ゼーリアも驚いた顔をした後、同じように目を輝かせる。
「モア嬢を愛人として認める代わりに、今後私は薬剤、公爵家に関する事業の業務処理を一切致しません。今後は、全て貴方が処理する事です。」
「な、なんだと…!!?」
ダリアの言葉に、セーモは一転して顔を強張らせた。
そう、元々結婚する前からダリアは優秀で、薬剤だけでなく公爵家の業務の処理を完璧にこなしていた。結婚してからはセーモの仕事の補佐…というよりセーモの仕事の処理も全て行ってきた。夫を支えるのが妻の役目だと思い、セーモと公爵家の為に働いてきたのだ。ダリアの優秀さは有名ではあったが、セーモがやったとされる功績の全ても、ダリアのお陰だと知る者は身内と、公爵家に仕えるごく一部の者だけであった。
「…ほらね、貴方は私の為に離婚しないと言い張っているけれど、本当は公爵家の地位と、仕事面において私を手放したくはない。そうでしょう?」
「…っ。」
図星だと言わんばかりに言葉を詰まらせるセーモに、呆れと苛立ちを表すダリア。
「まぁ、貴方にいきなり全ての仕事を任せるのは到底無理でしょうし、1ヶ月は引き継ぎ期間を設けます。その後は私は何もせずに悠々と最後まで、妻として過ごさせて頂きますね。」
「ふ、ふざけるんじゃない!! それがメデリア公爵家の人間の言葉なのか?! そもそも、仕事が無ければ貴女は…っ。」
「…何の魅力もない、取り柄もないと?」
セーモが怒りと焦りで口を滑らせそうになりながらも、すんでのところで留まった言葉をダリアはあえて口にした。ゼーリアはおろおろとした様子で2人を交互に見つめている。シーンと静まり返り、誰一人として話そうとしない。暫くして、ダリアは何度目かになるかも分からない溜息を吐いた後に口を開いた。
「…引き継ぎ期間が短いというのであれば、2ヶ月…いえ3ヶ月までのばしましょう。充分ですよね?」
「っ…貴女という人は、貴女にとって仕事は生き甲斐のはずだ! それを放棄するなど有り得ないだろう!!」
確かにダリアは薬剤の仕事は好きである。けれど、メデリア公爵家に生まれたが故の使命感のほうが強く、やらなくて良いのならば何もしない選択をするだろう。そして、他の業務は仕方ないからこなしているだけなのだった。とにかく仕事をやらず、公爵家という地位を持ち、ただ愛人と愛しあいたい、面倒事はダリアに全て押し付けたい…という身勝手なセーモを許せるはずがなかった。
「私の言いたい事は終わりましたので失礼しますね。モア令嬢と別れるか、私と離婚するか、全ての仕事を引き受けるか、明日の夜までお待ちしますわ。
…それと、私は仕事しか取り柄のない女だそうですが、優しさが0な訳ではありませんので忠告いたしますね? 明日の夜までに選択しなければ後悔しますよ。」
ダリアはそう言うと、再び文句を言おうとしたセーモを無視して部屋を出ていった――。
◇◆◇
「それでは、お返事を聞かせてください。」
翌日の夜、昨日と同じ部屋に3人は集まった。朝からセーモはダリアを避けるように行動し、顔を合わせることはなかった。ゼーリアはセーモと同じ部屋に泊まっていたらしく、その後もセーモの側を離れることなく過ごした様子だった。ダリアは紅茶の入ったティーカップに口をつけて紅茶を一口飲む。
「…離婚はしない。だが貴女の条件は呑めない!!」
「…昨日お話ししましたよね? 離婚しようと思えば強制的に出来ると。」
「断じて認めない! そんな事はあり得ない!!!」
ダリアの言葉を無視し、身勝手な主張を繰り返すセーモ。だが、ダリアは想定していたのかのように、やれやれといった様子で紅茶のカップを机においた。
「……では、別の提案に切り替えさせていただきます。」
「へ?」「?」
ダリアの言葉に、セーモとゼーリアは目を丸くした。
「今からの提案は全部で3つです。まず1つ目は、大人しく離婚に応じる事です…まぁ先程却下されましたので選ばないとは思いますが。2つ目と3つ目は殆ど同じ内容です。我が公爵家の薬剤の実験体になって頂く事です。」
「な、なんだと!?」
「貴方は当然知ってますよね? 我がメデリア公爵家の薬は怪我や病気を治す物だけではない…媚薬や拷問の為の薬にも携わっております。これから毎日、新作の薬の効果を確かめる為の被験体となって頂くのです。2つ目の条件は貴方が被検体になることです。毎日就寝前の3時間、協力して頂きます。その代わりに、業務処理は今まで通り私がこなします。勿論離婚もしませんし、モア嬢と存分に愛し合えますよ。」
「…なっ、ふ、ふざけるな!! 実験体だとっ…?!」
あまりの内容に顔を青ざめさせるセーモ。ゼーリアも不安げな表情をしてセーモとダリアを見つめた。
「そ、そんな条件は「3つ目の条件は被験体の対象が変わります。貴方様のご両親、キュリテ伯爵と伯爵夫人です。」
セーモの言葉を遮ったダリアの言葉に、セーモは驚く。
「…こちらに契約書があります。内容を纏めると私と貴方は離婚しない。今回の離婚問題については口外しない。私は今まで通りに業務をこなす。モア嬢との愛人関係を認める。その代わりに貴方か、ご両親のどちらかが薬剤の被検体となる。当然、この条件を断るのであれば問答無用で離婚です、慰謝料も頂きますし貴方とモア嬢の事も世間に公表します。」
そう言ってダリアは契約書を見せる。
「…サインをするには直筆と印鑑が必要です。貴方は問題ないとしても、伯爵の分も必要となります。」
薬剤の被検体という、後遺症や危険が伴う物、最悪の場合は命も危うい可能性がある場合は本人だけでなく、身内の同意も必要となる。セーモか、伯爵達のどちらがなるとしてもお互いの同意が必要だった。
「……分かった、仕方ない。」
「セ、セーモ様?」
俯いたまま少しの間悩んでいる様子だったセーモは顔を上げた。ゼーリアは不安げな顔でセーモを見つめる。もしかして、離婚することを選ぶのか? というかのような表情だった。
「父上と母上を説得する。2人を実験体にしてくれ。」
きっぱりと、はっきりとセーモは言い切った。
「…本当に宜しいのですか? お二人は貴方様のご両親なのですよ?」
「ふんっ、こんな提案をしてきたのは貴女だろう!! …しがない伯爵家の次男として生まれ、後継者になる資格がなかった私に、せめて伯爵家の役に立てる存在になれと偉そうに散々言ってきた。そして、その期待に応えて公爵家の一員となった僕に有難みを感じて、恩返しをするべきだと思わないか?」
セーモはダリアに…というより目の前には存在していない、自分の両親であるキュリテ伯爵達に今まで胸のうちに溜め込んできた何かをぶつけるように、吐き出すように話す。
「…成る程。だ、そうですよ? キュリテ伯爵、キュリテ伯爵夫人?」
しかし、ダリアが隣の部屋の扉に向かってそう言うと、扉が開き、この場にいる筈がないキュリテ伯爵と、伯爵夫人が姿を現した。
「…っダ、ダリア?!! 何故お父上達を連れてきているんだ!? こ、この離婚については口外しない筈だろう!?」
「…それは、先程の契約書に記載されていた内容ですよ? まだサインを頂いておりませんし、お話ししたのは今朝の事です。こんな大事な事をご両親に話さなくてどうするのです?」
ダリアは呆れたように、見下すように失笑しながら話す。セーモは顔を青くしたり、赤くしたりしながら怒鳴り散らす。
ダリアは今朝、キュリテ伯爵家に行き、事情を2人に説明していた。セーモに夜まで返事を待つといった手前、義理はないがキュリテ家の長男と使用人達には席を外して貰った。伯爵たちにとっても有り難い配慮であった。そして今夜、離婚と引き継ぎにも応じなかった場合の契約についても話し、隣の部屋で待機して貰う事にしたのだ。
「セーモ、話はダリア様から全て聞いている。」
伯爵はそう言うと真顔のまま、何の表情も浮かべることなく話す。
「…お前の判断は正しい。」
伯爵の言葉に驚くセーモ。先程の悪口は聞こえていた筈なのに、伯爵から出たのは肯定の言葉だった。
「…離婚をするなど有り得ない。そんな選択肢は存在しない、そう思うだろう、アンナ?」
「えぇ、その通りですわ。」
伯爵達は離婚をしない選択をした事を褒めていたのだ、当然だと。
「セーモ、お前は公爵家の一員となり、我が伯爵家を支える重要な役割を果たしてくれている。今後もそうであって欲しい。」
「ち、父上!」
伯爵の言葉に、顔の強張りが溶けていくセーモ。希望を見出したかのように笑顔を見せ始めるが、
「だが、何故引き継ぎの件を拒んだのだ?」
その希望を打ち砕くように、温度のない言葉が飛び出した。
「全て話は聞いている。離婚はしないが愛した女と離れたくないと言ったそうだな?」
そう言うと、キュリテ伯爵はゼーリアを睨みつける。ゼーリアはビクッと肩を震わせた。そんなゼーリアを見て、セーモは庇うように口を開いた。
「そ、それは…」
「…まぁ、それはそれで仕方ないかもしれんな。しかし、仕事もしたくないと言ったそうではないか…おまけに薬剤の被験体になる事も拒み、お前の親である私達を差し出す事にした……離婚しない為の条件を全て断っておいて私達に押し付けるというのは如何なものなのか?」
反論しようとしたセーモの言葉を遮り、続いた伯爵の言葉は、後になるにつれて冷たさを含んでいった。
…仮にも、公爵家であり、被害者であるダリア本人を前にして、浮気を仕方ないと言うとはどうかと思うが、この親があってセーモがいるのだと思うと納得してしまうダリア。
「自分の不始末は、自分でカタをつけなさい、当然の事だろう? お前が被検体となるのだ。」
「っ!?、ま、待って下さい!!」
伯爵の言葉にセーモは顔を青褪めさせる。
「早くサインをしろ、私のサインはお前の後にしてやる。」
「…っ、い、嫌です!! ち、父上! 息子とはいえ、公爵の私に強制するおつもりですか!?」
「…私は、何も見ておりませんのでどうぞご自由に。」
「ダ…ダリアッ!!」
今この部屋には5人、セーモの味方をするといえばゼーリアしか居ない。しかしゼーリアは男爵家の令嬢であり、愛人という褒められる立場ではない存在。勝ち目などなかった。それでもセーモはまだ若い男性で、キュリテ伯爵は50歳を過ぎており、ダリアと伯爵夫人は女性である。力ずくでその場を切り抜けられるのではないかと考えていると、キュリテ伯爵がパチンッと指を鳴らした。
「っ!?…お前たちは!!」
上下ともに小綺麗なスーツを着た体格の良い男性が2名部屋に入ってくる、キュリテ伯爵家の用心棒だ。
「セーモ、あまり手間を取らせるな。碌でなしとはいえ、大切な息子に怪我をさせたくは無いのだ。」
言葉とは裏腹に、ニヤリッと邪悪な笑みを浮かべる伯爵。自分を実験体にする事を良しとした事への怒りが滲み出ていた。夫人も息子に向けるものとは思えないような、冷徹な笑みを浮かべている。
「…っ、ダ、ダリア!!」
思わずダリアに助けを求めるようにセーモは顔をダリアに向ける、だがダリアは表情を変えることはなく、真顔を一切崩さなかった。
こうして、セーモは離婚をしない代わりに、薬剤の実験体となってしまったのであった。そしてそれは、破滅への第一歩であった――。