幻想の花園
無機質なビルとビルとの釁隙を、機械的に往復する人々。彼らの霊魂からは腐敗臭が漂い始めた。溢流する砂味の唾液、煙草と瓦斯に穢された空気を噛み締め、徒然なるままに嘔吐する。閉塞感を抱えた重たい身体を引き摺り、漂流する日々。人波を縫って進めるだけの余力は、ランドセルの中にしまいこんだきり忘れられてしまった。
街の上には何時ものように黄昏の慌ただしさも流れて、冬夜の森閑が顔を出し始めた。千鳥足で帰路につく彼。ブレる視界に何かが映る。やにわに、それは補足された。
黒い靄が、電柱に寄りかかっている。誤った遠近法で描かれた絵画に内包されている嫌悪感と、似た衝動が、彼の精神を締め付けた。無意識下で彼の願望が、靄に投影され、レッテルを貼られる。黒は白銀に、靄は身体に変貌する。白銀の髪を携えた麗しき少女の像が、彼の目玉の表面に描かれた。
横たわる少女の輪郭が、朧気に見える。細い草木の蒼が少女を保護するように伸びている。今にも瓦解しそうな神聖なる空間、零細な花園が、ネオンライトの影に隠されていた。
霜天の下、朔風に靡く少女の長髪が、仄白い月光に照らされる。光沢を帯びた白銀の髪の息遣いが、彼の鼓動に呼応して、しなやかに揺れた。雪風に乗って滑空する遠方の白鳥の眼にも、その表象は、晦冥であれ明確に煌めいて映った。
彼は彼自身に撤退命令を下した。しかし、ビルの隙間に鎮座する花園が、彷徨する彼を抱き寄せた。彼の濁った瞳が静止する。絶えず痙攣していた彼の瞳孔に、静謐さが帰ってきた。
刹那、少女の華奢な体軀に、熾熱灯の眩い閃光が射す。花園には突発的なビル風が吹き抜けて、攪拌した周囲の草花達が、アヴェ・ヴェルム・コルプスを謳歌する。
彼は彼自身に撤退命令を下した。しかし、少女の柔らかな掌が、彼の情感を掴んで離さない。少女の熱い吐息が彼の思惟に干渉し、滴る悲涙に穏やかな甘味を加えた。爽やかなレモンの香を纏った雫が、彼の頬を這う。やがて、雫はグレイの色味を帯びて、硬く凍りついたアスファルトの表層に舞い降りる。雪解け水に軽く会釈した後、混交し、蒸発した。
あわせて、少女は消え果てた。忽然と姿を消した。花園は、ビルの影に喰われた。現実の上に重ねられた幻想の輪郭が、虚空に帰っていった。
風光る。
春風が、褪せたスーツの裾を捲る。冬の秩序の残骸と春の兆しが、溶け合う世界に、彼は歩み始めた。ただ貴く、美しいものは亡びない。あの花園の面影は、都会の街並みが何年変遷しようとも、彼の意識の下に再建される。春光に、ビルの隙間に、電柱に、少女の残影を見出しながら、その身体を都会の喧騒に投げかける。
彼は未だ、シャボン玉のように膨らんで消え果てた、あの空想上の恋人に恋焦がれている。
幻覚との遭逢は、絶望から始まる。病んだ社会が大衆の人格を歪ませ、歪んだ人格が現実の上に幻想を形づくる。大衆は現実から逃避し、幻想の社会構造(例えば中世ヨーロッパ風の異世界)を縁にして、今日一日を耐え忍んでいる。
朔風に君の銀髪靡くたび霜天であれまもらるるかな