さよならのその一言で
これまで何度さよならと言っただろう。私は毎日同じ夢を見ている――、いや、見させられていると言った方が正確かもしれない。見たくもないのに、昨日も一昨日もあの光景が繰り返される。もう正直うんざりだった。シナリオを何とかして変えようと思っても、その希望は全く満たされるところを知らなかった。私が夢に及ぼそうとする力は、嘲笑われるかのように無情にも跳ね返され散ってゆく。
どうして私はあの時さよならと言ってしまったのだろう……。
どうして私はあそこで彼を引き止めなかったのだろう……。
――さよなら。
そう言い放った数分後に、私の家の前は救急車のサイレンの音で響き満ちていた。まさか彼のことだとは思いたくなかった。朝から物騒なことが起きるものだと、渋々外に出て様子を窺うと、車道にさっきまで近くで見ていた男性の姿が、ついさっきまで一緒にいた彼が血を流して静かに横たわっていた。
直ぐには状況が呑み込めなかったものの、受け入れなければならなくなった時、私は自分の発した言葉を悔いても悔い切れないほど後悔した。軽率に発してしまった「さよなら」の言葉の重みを痛感した。
別れようとは思っていたものの、まさか彼が帰らぬ人になるなんて全く想像していなかったし、想像なんてしたくもなかった。私に別れを告げられた彼は、放心状態のまま車道に足を踏み入れ、運悪く猛スピードで走ってきた車に轢かれてしまった。偶然に居合わせていた人から電話越しにそう聞いて、私は血の気が引いて無意識のうちにその場にしゃがみこんでしまった。大きな顔をした静寂が堂々と居座るこの部屋で私は泣き崩れ、押し潰されそうなほど小さく縮こまっていた――。
◇
あの日は窓から爽やかな朝日が差し込む長閑な朝でした。おはよう――。向こうの方からそんな呑気な声が聞こえてきます。私は一目惚れした男性と大学生の時から同棲していましたが、気がつけばもう4年も経とうとしていました。彼はとても優秀な人だったそうで、大学は医学部に入り、そのまま医者になったという話を、前に笑いながら私に話してくれたことがあります。医者とだけ聞くとなんとなく無機質な感じがしてしまいますが、一緒に住んでみて全然そんなことないって気がついたんです。彼は料理に洗濯や掃除、その他あらゆる家事をしてくれたり、私が仕事から疲れて帰ってきた時には、いつもの穏やかな調子で私を癒やしてくれました。
――でもそれは彼が家に居る時だけのことで。
彼はいつも職場に籠りきりでした。昼夜手術や患者の面倒を見たりで、泊まり込みで働いていることが殆どでした。たまの休みには家に帰ってきてくれるけれど、それ以外私はずっと家で独り。私にはそれが耐えられなくって。彼がそうしてくれたように、私も彼を癒やし、支えてあげるのが恋人としての私の務めだったのかもしれません。彼だって、忙しい日常の中だったのですから、もしかしたら私を心の拠り所にしていたのかもしれません。そんな信頼や愛情を、私だって裏切りたくはありませんでした。
けれど……、けれど私には彼とは別に好きな人ができていたんです。
なんて罪深い人なのだろう――。自分でもそういう気持ちが芽生えていました。罪悪感が私からあらゆる感情を抜き取っていって骨抜きになった私。そこには大海のようにただ広い虚しさしかありませんでした――。
◇
元の自分に戻りたい。彼に会えることだけを待ち望んで、独りでも毎日が楽しかったあの時を。彼と一緒に映画館や買い物に行ったり、ドライブに行ったり、他愛のない話をして笑い合っていた日々を。幸せに包まれたあの日々を。一度だけでいいから私は取り戻したかった。彼だけを愛していた自分に戻りたかった。
でも、そんな願いはただの儚い想いに過ぎなかった。玄関にはまだ彼の気配を感じる。ドアに吹き付ける風が少し不気味で、一方でこの風に乗ってくるかのように彼が戻って来てくれたなら、と、ついそんなことを思ってしまう。
私は今夜もまた、そこで立つ彼にさよならを言ってしまうのだろう。本当は戻ってほしいくらいなのに。職場にも、どこにも行かないで、ずっと家にいてほしいくらいなのに。さよならなんて言いたくないのに――。
幸せに溢れた日々をもう一度送りたいという希望は、今日もまた叶わないから夢――――。