9 『プルメリア ~花唄~』
──《少年の父親は非常に厳格な人物で、教育と称しては少年をよく殴った。母親は父親に決して逆らわず、その状況を容認していた。少年は『母が自分を助けてくれたことは一度もありませんでした』と裁判官に語った》──
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アパートの壁にカラーボールをぶつけたり、ゴミを敷地内に投げ込んだり、扉の前でねずみ花火を炸裂させたり、インターホンを連打したりした写真や動画が数多く上がっていた。
毎日のように悪質な行為がなされ、誰が一番過激なことが出来るかを競い合っていた。
神崎はもちろん、玲奈さんにとっても恐怖でしかないだろう。下手をすると神崎だけでなく玲奈さんも外に出られなくなっているかもしれない。
今この瞬間にも二人に対する誹謗中傷が行われていた。
俺は我慢出来ず、火中に手を突っ込んだ。
『もう止めようぜ、こういうの。可哀想だろ』
だが突っ込んでから深く後悔した。
『は? 何言ってんだこいつ』『空気読めない馬鹿は黙ってろ』『犯罪者に罰を与えてやってんだよ』『被害者の気持ち考えたことあんの?』『俺は嫌な思いしてないから』『偽善者乙』『くっさ』『お前初めてかここは? 力抜けよ』『こいつ木下じゃね?』『いえーい木下くん見てるー?』『絶対に許さない。震えて眠れ』──
『あいつが何したって言うんだよ。お前らには関係ないだろ』
確かに神崎は犯罪者だ。凶悪な事件を起こした人間だ。だが罪を償おうと前向きに生きている。
それを邪魔する権利は誰にもないはずだ。
『人殺しに生きる権利はない。はい論破』『あいつは人間じゃないからセーフ』『つーかあれだけの事件起こしといて女と同棲してるのがむかつく』『それな。世のなか間違ってる』『女のほう妊娠してるってそれマジ?』『父親が殺人者とか子どもが可哀想』『いや子どもも同罪だろ、死んで償え』『悪魔の子』『木下は死刑になるべき』『完全に同意。あんな奴を生かしてはおけない』『死ね、とにかく死ね、苦しんで死ね』『木下誠殺す。ナイフでメッタ刺しにして殺す』『家に火を放て!』──
津波のように襲ってくる言葉に退散せざるをえなかった。
俺は強い不安に駆られ、服も適当に家を飛び出した。
外は灼熱。肌を焼く光線はあっというまに俺から水分と体力を奪った。
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サイケデリックな模様に汚れた壁、スプレーでの罵倒の文字、そこらじゅうに散乱した人か動物のものかわからない糞、それらにたかる大量の蝿──アパートは変貌の極みにあった。
今は周りに誰もいないようだが、しかしどこからか見られている気がした。
蝿を払いながら進み、インターホンを押そうとしたが、押すのは止め、軽いノックをして神崎を呼んだ。扉には傷やへこみが増えていた。神崎が顔を出した。そのやつれた表情から心労の度合いが伺えた。
お邪魔すると布団に横たわる玲奈さんと目が合った。起き上がろうとした玲奈さんを、神崎が「いいよ、起きないで」と手で制した。「ううん。そろそろ病院に行く時間だから」と彼女はその手を握って体を起こした。
大きく膨らんだお腹に比べ、彼女の顔が以前より細く見えた。
「じゃあ僕も行くよ」
「一人で行けるよ」
「でも危ないよ。この前だって階段から落ちそうになったし」
「大丈夫だよ。それに、一緒に歩いてたら……ね?」
玲奈さんが微笑むと、神崎の顔が歪んだ。彼女の言わんとすることはわかる。俺は二人が寄り添って歩く写真や動画をいくつも見ているからだ。
そこで神崎が俺のほうを向いた。
「樋口さん、お願いします。玲奈に付き添って頂けませんか?」
「えっ」
「ご迷惑なのは承知しています。でもこんなことを頼めるのは樋口さんしかいないんです」
神崎は頭を下げた。
俺は「……貸し一つな」と肩をすくめた。神崎が破顔した。
「玲奈も、それならいいよね?」
「うん、樋口さんなら。すみません、よろしくお願いします」
彼女も頭を下げた。その下げ方が神崎に似ていた。似たもの夫婦とは二人のためにある言葉だと思った。
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敵の狙撃手が潜んでいて、無闇に姿を晒せばその瞬間に骸となりそうな緊張感があった。俺は神経を尖らせて入念なクリアリングを行う。
「そこまでしなくても、いいんじゃないですか?」
「いや、何があるかわからないから」
現実は常に予想の上を行く。用心し過ぎることはない。
「何だか、樋口さんのほうが変な人みたいですね」
笑顔で言われ、急に恥ずかしさを覚えた。
確かに挙動が大げさだったかもしれない。
「でも、玲奈さんは気をつけて」
玲奈さんがうなずく。大きなお腹を気にしながら、ゆっくり坂を下りる。その歩みは危うく、ちょっと押せば積み木で作った城のように崩れてしまいそうだった。神崎が心配するのも無理はない。
火照った体に冷たい汗が流れた。
いざというときは、俺が盾にならなくてはいけない──。
だが何事もなくバスに乗り込めた。
俺たちは一番後ろの席に、一人分のあいだを空けて座った。バスは自室と同じくらい冷房が効いていた。俺は長く大きな息を吐いた。
玲奈さんが通う病院はこの長い坂の下にあるらしい。俺は使い捨てられるように流れていく景色を見つめた。
「どうして、こんなに聖也くんによくしてくれるんですか?」
向くと玲奈さんが首を傾げていた。
「それは、玲奈さんもだよね」
彼女が小さく笑った。これから母親になる彼女も、そこだけ見ればただの十八歳の女の子だった。
「あいつがどんな人間かは知ってる。だから俺はあいつを信じるんだ」
「樋口さんって、本当に優しい方ですね」
今度は俺が小さく笑った。
「これからも聖也くんのこと、よろしくお願いします」
彼女が検査を受けているあいだ、俺は待合室で寝ていた。寝るつもりはなかったのだが、気を抜いたら時間が飛んでいた。
病院を出ると空が蜂蜜色に染まっていた。
玲奈さんの顔色がさっきよりは良く見えた。
「あっ」
バスを待っていると、玲奈さんが喘いだ。
「どうしたの?」
「今、この子がお腹を蹴ったんです」
「男の子だっけ。元気だね」
「そうですね。本当に元気……」玲奈さんが目を細めた。「樋口さん、触ってみますか?」
触れさせてもらうと、仄かな温かみが手のひらに伝わった。
この胸のうちで渦巻く感情は、きっと言葉にした途端に陳腐なものになるだろう。
だから俺はただ感じ続けた。
バスがやってくると手を離した。
今度は隣り合って座った。
「名前は決めてるの?」
彼女は《勇気》だと答えた。
「それって……」
「はい。樋口さんのお名前です」
「いや、それはちょっと」堂々と言われ、動揺してしまう。「神崎が何て言うか」
「聖也くんが考えたんですよ?」玲奈さんが笑った。「聖也くん、樋口さんに本当に感謝してるんです。会社で働いてたときも、樋口さんの話ばっかりで。この子も樋口さんみたいに、誰かが辛いとき傍にいてあげられる人になってほしいって」
俺は反対を向いた。だが窓ガラスは俺の顔をしっかり映していたので、どんな顔をしているか見られてしまった。
それを見ても玲奈さんは何も言わないでいてくれた。
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玲奈さんが、また夕飯に誘ってくれた。今回は素直に受け入れた。彼女が作ってくれた夕飯は決して豪華なものではなかったが、一品一品から愛情を感じた。カップラーメンが主食の俺の体に、その温かさが沁み込んでいった。
三人で囲んだ食卓は、素朴だったが幸せだった。
二人の笑顔に見送られた。
「今日は本当にありがとうございました」
「いいってことよ」
「またいらしてください」
「うん。ご飯美味しかったよ。ごちそうさま」
俺は明るくて温かな世界から、薄暗くて粘っこい世界へ踏み出した。その落差がひどすぎて、ここが本当に現実なのか不安になった。俺は点滅する外灯を頼りに、ゆっくりと坂を下った。