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8  『等身大のラブソング』


 ──《最初の犯行から二日後、少年は下校中の女子小学生二人にナイフを向け、近所の林に連れ込むと服を脱ぐよう命じた。そして逃げたら片方を殺すと脅し、長時間に渡って激しく強姦した後、殺害した》──


      ●


 脳が痺れた。

 俺は前歯で切断した棒アイスの欠片を口のなかで転がした。

 爽やかなラムネの味が口いっぱいに広がった。


 黒い画面に白い文字のスタッフロールが流れている。右下に映倫のマークが出ると息を吐き、体を丸めた。しばらく吐き続けていたが苦しくなってきたので、やむなくまた吸った。

 そして次の映画を再生した。


 話は進むが、やはり頭に入ってこない。恋愛映画だということはわかるのだが、台詞や景色が体を通り抜けていく。どこにも響かない。いい加減止めようと思うのだが、止め時がわからない。

 終わるとすぐ次の映画がおすすめされるので、ついそれを再生してしまう。

 無理やり口を開けられて、ホースで餌を流し込まれる鳥のようだった。


 そろそろ仕事を探さなければと社会人としての自分が言うのだが、人間としての自分がそれを優しく宥める。

 俺は先輩たちと違い、連日飲み歩くこともなければ賭け事にも興じなかった。だから焦る必要はなかった。むしろ少しは金を使わなければいけなかった。だが特に使い道は思いつかなかった。


 薄っすらと蝉が鳴いているのが聞こえる。家の前を小学生だろう集団が何か叫びながら通り過ぎていった。


 また一本見終わった。気がついたら男と女が星空の下でキスをしていた。そこに至るまでの過程はちゃんとあったはずだが、観測者がいなければなかったことになる。俺は腰を上げた。狭苦しいワンルームのキッチンへ向かうたった数歩が、体力をごっそり削った。


 三分待つところを五分待ったラーメンのふたを剥がすと、豚骨醤油の濃厚な匂いに襲われた。


 ──神崎の顔が思い浮かんだ。


 電話をかけてみた。しかし何十秒経ってもやはり神崎は出なかった。俺は電話を切ると麺をすすった。そしてまた神崎について調べ始めた。


 するとある匿名の掲示板に、以前にはなかった書き込みがあった。

 神崎がウォーターサーバーを販売する会社で働いていたことや、社内での様子や、今の住所までが暴露されていた。


 世界の片隅の住人たちが戦々恐々としていた。

 そして神崎に思い思いのレッテルを貼り、安心を得ようとしていた。


 そこには俺が知っている神崎とは違う神崎がいた。呪詛と罵詈雑言と少しの崇拝の中心で、極悪非道の悪魔として、無辜なる民を食い散らかす──そんなイメージを植え付けられてしまう。


 だが俺は知っている。神崎は決してそんな人間ではないと。

 そう、鬼でも悪魔でもなく、人間なのだと。


      ●


 地球上の水分をすべて吹き飛ばすような暑さだった。

 早く日陰に入りたかったが、どこにも逃れられる場所はなかった。


 俺はかつて車で登った坂道を、今度は自分の足で登っていた。

 外はすっかり夏模様に染まっていた。空と雲の比率が美しいと感じた。あの向こうに無限の闇が広がっているとは到底思えない。


 見るからに空き家とわかる家屋が増えてきた。スラム街にでも迷い込んだような気持ちになった。


 やっとの思いで辿り着く。

 アパートのゴミ捨て場からあふれたゴミが道路にはみ出していた。そこから鼻がもげそうな臭気が上がっていた。雑草も以前よりパワーアップしていた。


 ふと視線を感じた。

 振り向くと小さな男が電柱の陰に身を隠した。


 それは繁華街なら特に気にならなかっただろうが、こんな場所では怪しさの塊でしかなかった。

 背すじに寒気を覚えつつも、一番奥の扉の前に立った。

 錆びついて、ところどころ塗装が剥げている、ぼろぼろの扉──。

 その横の汚いボタンを押すと、変な屁のような音が響いた。


 扉は固まったままだ。しかし電気のメーターはよく回っていた。俺は扉の向こうに呼びかけた。

 すると足音が生まれ、扉が開かれた。髪を無造作に散らかした髭づらの男が顔を覗かせた。部屋を間違えたかと思ったが、よく見ると神崎だった。神崎が「入ってください」と小声で言った。俺は言われるまま体を滑り込ませた。


 狭い和室があった。そこに家具や小物がぴっちりと置かれていて、さらに狭く感じた。どこかに何かを置けばその瞬間、別の何かが転がり落ちそうだった。古いエアコンが咳込むように空気を吐いていた。


 腰を下ろすとテーブルに麦茶が入ったグラスが置かれた。俺はすぐに麦茶を喉の奥へ流し込んだ。


「お久しぶりです。まさか家に来てくださるとは思っていませんでした」

「ちょっと心配になってな、色々と」


 そこで神崎が頭を下げた。その下げ方が社長と重なって見えた。


「樋口さん、本当にすみませんでした」

 俺は手で制したが、神崎は下を向き続けた。

「何も言わず会社を辞めたこと、申し訳なく思っています。しかもその後、何回もお電話を頂いたのに」

「いいよ。誰だって言えないことくらいあるよ」

 俺も辞めることを誰にも相談しなかった。淡々と手続きをし、雪が溶けるように会社から消えた。


 神崎が顔を上げた。眉が下がって目が潤んでいた。

 浮浪者みたいな風貌でも、神崎がそんな顔をすると絵になった。


「そう言えば、彼女さんはいないの?」

 部屋を見回すが姿はない。

「玲奈……彼女は今、病院に行っています」

「そうか。もうだいぶお腹が大きくなってるんじゃないか?」

「そうですね。だから一緒に行きたかったんですけど」神崎が目をそらした。「外に変な人たちがいますから」

「変な人たち?」


 訊くと少し前から怪しい奴らが家の周りをうろつくようになったらしい。彼らは神崎の写真を撮ったりするようだ。止めろと言っても止めてくれない。そんなことを繰り返すうちに、おちおち外にも出られなくなった。


 つきまといは少しずつ過激になっているようで、共用部に会社に送られてきたような紙を貼られたり、郵便受けにナイフを入れられたりしているらしい。


 それはどう考えても犯罪だ。

 警察に届けたり、裁判を起こしたりすれば間違いなくこちらが勝てる。俺はそう言ったが、言ってから神崎が諦観の微笑を浮かべているのに気づいた。

 俺は麦茶のおかわりを貰った。


 その話はそこで終わった。

 俺は自分も会社を辞めたことや、今日まで無為な時間を過ごしていたことを話した。


 そんな風に互いの空白を埋めていると、扉が開いた。身構えたが、入ってきたのが女性だったので脱力した。


「ただいま」

「おかえり、玲奈」

 神崎が女性の体を支え、靴を脱ぐのを手伝った。

 女性のお腹は以前より大きくなっていた。


 神崎は玲奈と呼んだ女性に俺を紹介した。会社の先輩で、一番お世話になった人と言われ、気恥ずかしさを覚えた。


 玲奈さんはまだ十八歳だった。

 高校は行っておらず、日雇いのアルバイトで生計を立てていたら神崎と出会ったという。


 その出会いは玲奈さんいわく運命だったそうだ。

 一目見た瞬間、自分はこの人と一緒になるために生まれてきたのだと感じたらしい。


 だから神崎の過去を知っても、彼女は離れなかった。

 むしろ打ち明けてくれたことを嬉しく思った。


 そして神崎の子を、その身に宿した。


 二人は肩をくっつけながら、いかに自分が相手を愛しているかを語った。身動きを取るのも一苦労な狭い部屋──ここは寄り添う二人にとって、ますます寄り添える空間でしかなかった。


 いつのまにか夜になっていた。

「樋口さん、よかったら夕飯を召し上がっていってください」と玲奈さんに勧められたが、俺は丁重に辞した。神崎が残念そうな顔をした。


 二人に見送られた。扉が閉まると世界から音が消えたように感じた。しかしそう感じたのは一瞬のことで、見計らったように蝉が鳴き出した。


 チェック柄のシャツを着た男と目が合った。

 男は口角を上げたが、俺が睨むと猫のように逃げ去った。


 恋人や結婚、ましてや親になるなんて違う世界のことのように思っていたが、あの二人を見て少しだけ身近に思えた。俺は玲奈さんのお腹を優しく撫でる神崎と、玲奈さんの微笑みを、何度も回想した。


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