7 『エデン』
──《乱暴に及んだ少年は、抵抗する少女の腹部に何度もナイフを突き立てた。逮捕後少年は警察の取り調べに対し『刺すたびに中が温かくなって、とても興奮しました』などと語った》──
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神崎は懸命に働いた。
だが積み重なっていく数字と反比例して、社内の空気はどんどん冷えていった。もう神崎とまともに話をするのは俺と部長くらいだった。
あとはみんな、まるで神崎がそこにいないかのように振舞っている。あんな告発がなければ、きっと誰もが神崎の躍進を祝福していただろう。
「俺からみんなに言ってやるよ」と提案した。しかし神崎は首を振った。「そう言ってもらえて嬉しいです。でも樋口さんに迷惑はかけられません。樋口さんまで巻き込んでしまったら、僕は自分を許せなくなります」
部長に相談した。部長は険しい顔で「俺だって何とかしたいさ」と漏らした。「でもみんなの気持ちも無視出来ない」葛藤が額のしわに表れていた。
ある日、喫煙所の前を通ったら小さな笑い声が聞こえた。先輩たちが俺を指差していた。まるで電車のなかで騒ぐ酔っ払いを見るようだった。普段ならそんな嘲笑は無視するのだが、俺は彼らに歩み寄った。
「何か用ですか?」
「いや何でもねえよ。ごめんな、笑って」
全員が大笑いした。喉の奥に酸っぱいものがこみ上がった。
「神崎を無視するの止めてやってください。あいつ、それですごく落ち込んでるんです」
「樋口、お前あんな殺人鬼をかばうのかよ」
「でも昔の話ですし、今は……」
「はあ? いつまた人を殺すかわかんねえだろ」
「あいつに脅されてるのか?」
「無視するのが当然だろ」
言葉がいくつも返ってきて、どれを打ち返せばいいかわからなくなった。
肩に手を置かれた。
「もうあいつに関わるなよ。お前も面倒事は嫌だろ?」
もちろん嫌だ。俺は波風立たない平穏な人生が送れたらいい。トラブルを起こすのも、トラブルに巻き込まれるのもごめんだ。だが俺は手を払うと、全員の目を見て言った。
「いい奴ですよ、神崎は」
先輩たちが眉をひそめた。まるで人殺しでも見るようだった。煙草を灰皿に押し付けると、彼らは喫煙所を出ていった。
淡い煙が薄汚れた灰皿から立ち上がり、すぐに見えなくなった。
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梅雨のあいだも神崎の躍進は止まらず、もはや誰も追いつけないほどの独走状態となっていた。
しかし一人だけ突出している成績のグラフを誰もが認めつつも、それにいっさい触れようとしない。
冷え切った空気が常に満ちていた。
最近は俺も無視されるようになってきた。
それを心地良いと思うには、俺はまだ未熟だった。
ある雨の日の午後、自分の席でメールを打っていると、甲高い悲鳴が聞こえた。
「助けて! 殺される!」
全員が声のしたほうを向いた。
誰もが茫然とするなか、俺は即座に走り出していた。
「人殺し! 人殺し!」
声は給湯室から響いていた。
入口に神崎が立っていた。
奥を見ると総務部の松本さんが床に座り込んでいた。目に涙を浮かべ、顔を引きつらせて、迫真の悲鳴を上げていた。
「神崎、何があった?」
「いえ、僕は何も……」
みんながやってきた。すると彼女は叫ぶのを止めた。だが神崎を睨む目は鋭かった。その側には白いマグカップが転がっていて、床にどす黒い染みが出来ていた。コーヒーだった。
部長が歩み寄り、松本さんから話を聞いた。
彼女は神崎がいきなり給湯室の電気を消したので、殺されると思ったらしい。
部長は当然、神崎にも話を聞いた。
もちろん神崎にそんなつもりはなく、スイッチにたまたま手が当たってしまったのだと言った。
部長は唸り、そしてどちらかと言えば神崎の意見を尊重した。
だが彼女は納得しなかった。
「そいつの言うことを信じるんですか! そいつは人殺しなんですよ!」
部長が宥めるが、彼女はますますヒートアップしていく。そのうち社長までやってきて状況がさらに複雑になった。詰めかけたみんなが思い思いに口を開いた。星の誕生を見ているようだった。
神崎が今にも泣きそうな顔をしているのが見えた。
そして神崎は音もなく消えた。
俺はどこにいればいいのかわからず、立ち尽くすしかなかった。
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神崎は会社に来なくなった。
部長に休みの連絡はしているようだが、部長はいっさい情報を漏らさなかった。
そんな日々が一週間ほど続いて「神崎のことだが、会社を辞めることになった」と部長が朝礼で言った。
「ご迷惑をおかけしました、だそうだ」
朝礼が終わっても俺は席に戻れずにいた。そして戻ってからもしばらく何も出来なかった。デスクトップと同じ色の空が、きらきらと輝いていた。
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会社に活気が戻った。
笑顔の花がそこらじゅうに咲き誇った。
何度も電話をかけたが、しかし神崎は一度も出なかった。まるでこの世から存在そのものが消えてしまったようだった。
気持ちを切り替えようとしても上手くいかない。
穴の空いた樽に水を注ぐようにやる気が漏れていってしまう。
遅刻が増えた。
無断欠勤を重ねた。
俺は何年も一緒に働いてきた人たちを、心底から不気味に思った。彼らが人間によく似た何かだとしか思えなくなった。