5 『長すぎた夜に』
《K市連続少女殺人事件》
──当時十五歳の少年が同級生の少女を激しい強姦の末殺害し、その二日後、近所に住む女子小学生二人も同様に殺害した事件だ。加害者の年齢や事件の残虐性から、各メディアで様々な議論を呼んだ。
当時未成年だったことから名前も顔も報道されなかったが、インターネットはその限りではなかった。神崎の旧名だという《木下誠》で検索すると、彼の生い立ちから事件の経緯までが事細かにまとめられたサイトが数多く存在した。
俺は薄暗い部屋で、それらのサイトを順番に見ていった。
木下誠はその後少年院に送られたが、当然ながら死刑になったわけではない。
いつかは自由の身となる。
そして俺と同じように食べ、眠り、仕事をして生きていくことになる。
そう、名前を変えたりして──。
さっき食べたラーメンを戻しそうになった。豚骨醤油の濃厚な匂いが部屋に満ちていた。俺は部屋の窓を開けて空気を入れ替えると、深い海の底へ潜るように、また前のめりになっていった。
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一夜明け、社内は神崎の話題で持ち切りだった。
俺が出社した頃には空気が一つの生き物のようにまとまっていた。
俺は神崎に真相を訊くつもりでいた。
しかし朝礼が始まっても姿は見えなかった。
部長によると、今日は休みらしい。まだ体調が優れないのだそうだ。昨日の憔悴ぶりが思い出される。
だがその姿を見ていない者からしたら、それは余計に疑惑を深めることにしかならなかった。
昨日はほとんど眠れなかった。なので寝床を探しに外へ行こうとしたら、部長に呼ばれた。これから打ち合わせをするからお前も来い、と言われた。俺がいる意味はあるのかと思ったが、部長が社長室の扉をノックした瞬間、眠気が吹き飛んだ。
部長に続いてなかに入ると、重苦しい空気が全身を包んだ。
大きな机の向こうに社長が座っていた。扉が閉まると世界から弾き出されたように感じた。
部長は神崎が休みであることを伝えた。
「ですのでその代わりと言っては何ですが、神崎の指導に当たっている樋口を同席させます」
社長はうなずき、俺たちを机の前の革張りのソファに座らせた。そして自身も対面に移動した。
部長が社長を睨んだ。相当な威圧感がにじみ出ていた。しかし社長は何らの狼狽も見せなかった。
部長が例の紙を出した。
昨日の夜散々見た、犯人の顔があった。
「昨日このような紙が当社に送られてきました。単刀直入にお聞きしたいのですが、社長はこの件について、どこまでご存じなのでしょうか」
社長は突き付けられた質問になかなか答えなかった。だがそこに誤魔化そうというような意思は感じられなかった。
「すべて知っている」と社長は答えた。「彼は──誠くんは、私の甥なんだ」
部長が息を呑んだのがわかった。
「申し訳ない」
社長が深々と頭を下げた。
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春の帳が下りた頃、社長に電話があった。
社長は初めその声の主に戸惑ったが、自分のことを叔父さんと呼ぶ声には、どこか変わらないものがあったという。
その晩二人は顔を合わせた。
事件以来七年ぶりの再会だった。
甥の見た目はすっかり変わっていた。
少年時代にあった幼さは徹底的にそぎ落とされていた。
二人は個室のレストランへ行き、そこで空白の時間を埋めていった。
神崎は何度も反省の言葉を述べた。大粒の涙を流し、みんなに合わせる顔がないと慟哭した。しかし泣きながらも目は死んでいなかった。
神崎は社長に、叔父さんの会社で働かせてほしいと頼み込んだ。
聞けば二年前には少年院を出ていたようで、それまでは日雇いのアルバイトをしながら行方不明になっている両親を探していたらしい。
神崎の両親はあの事件でマスコミから連日過激な報道をされ、全国から大バッシングを受けた。自宅に嫌がらせをされるのが日常茶飯事になった。だからほとぼりが冷めた頃、彼らは親戚にも、少年院にいる息子にも行き先を知らせず消えた。
神崎は両親に会おうと考えたが、いくら探しても見つからない。日雇いのアルバイトは雀の涙ほどの金しか手に入らない。生活が困窮していくなか神崎は、叔父が会社を経営していたことを思い出し、望みを賭けたのだった。
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社長が語り終えると長い沈黙が生まれた。
誰かが言葉を発しない限り、それは永遠に続くのではないかと思った。
そんな気の弱いハムスターなら死んでしまいそうな沈黙を破ったのは部長だった。
「ご事情はわかりました」
「社員のみんなに、大きな混乱を与えてしまった」
「彼を営業部ではなく、管理部や総務部に配属すべきだったのではないでしょうか」
いくら子どもの頃と姿や名前が変わっているとはいえ、どこかに残った面影を見つけ出して、気づく人間が出てきてもおかしくはない。
「私もそう提案した。だが彼が営業部を強く希望したんだ」
自分の正体が露見してはいけないことは、誰よりもわかっていたはずだ。
それでも大勢の人間に出会う営業職を希望した。
それを更生したからこその考えと捉えれば、社長が強制出来なかったのもうなずける。
「これから、どうされるおつもりですか?」
部長の手が小刻みに震えていた。そしてまた長い沈黙の後、社長が言った。
「彼は罪を償い、必死に前を向こうとしている」
「社長、それは……」
「彼がしたことは決して許されることではない。だが深く反省し、自らの足で歩こうとしている彼を否定したくない」
正論だった。
社会人として、いや人間として、それが最適解なのだろう。
社長が俺に穏やかな声で言った。
「樋口くん、彼に色々と教えてくれてありがとう。彼と接していて、どうかな」
「……問題は、ありません。仕事ぶりは真面目ですし、すぐに結果も出しました。人当たりもよく、社内で彼を嫌う者などいませんでした」
こんなことになるまでは、とまでは言わなかった。
「彼は自分の罪と向き合おうとしている。そのために力を貸してほしい」
俺は行き場のない煙のような感情を抱えたまま、とりあえず了承した。
「どうか、彼を信じてほしい」