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4  『小さな掌』


 出社すると社内の雰囲気がおかしいことに気づいた。普段なら遅刻ギリギリに来る俺を責めるように睨みつけてくるのに、今日はそれがない。誰もが隣の人と女子中学生が好きな人を教え合うように顔を近づけて、何か小声で話していた。


 そんななか、神崎だけが黙って俯いていた。


 朝礼が終わってもざわつきの火は消えなかった。神崎に訊いても歯切れの悪い言葉しか返ってこなかった。神崎が言葉に詰まるところなど初めて見た。


 俺は部長に「何かあったんですか?」と訊きに行った。部長が俺を見て露骨に嫌そうな顔をした。部長は「性質の悪いイタズラだから、みんなには気にするなと言ったんだが」と前置いて「こんな紙が今朝、会社に届いてたんだ」と一枚の紙を出した。


 そこには《神崎聖也(旧名・木下誠)は猟奇殺人者である!》と新聞を切り抜いたような不揃いの字で書かれていた。その下には学生服を着た少年の顔写真と、その経歴らしき文章が添えられていた。

 少年は口を曲げて、睨むようにこちらを見ていた。

「変なイタズラですね」


 俺は神崎の肩を叩いた。

「気にするなよ、こんなのよくあることだって」

 こういったものは今回に限ったことではない。ベッドの上で裸になって開脚し性器を見せつけている女性の顔を、社長の顔にすげかえた写真が送られてきたこともある。あのときは会社中が笑いで満たされた。社長だけは青筋を立てて怒っていたが。


 だが神崎は顔を真っ青にしたまま、うなずきもしなかった。

 大きなショックを受けているのがわかった。


 確かに入社して早々こんなイタズラをされたら気が気じゃないだろう。周りも励ましてあげればいいのに。

 俺は「じゃあ行こうぜ。今日もばっちり決めような」と神崎を立たせた。

 全身にいくつもの視線が突き刺さるのを感じた。


      ●


 これまでの仕事ぶりが嘘のような有様だった。神崎が人並み以上の容姿をしていなかったら、不審者が家に押し入ろうとしていると通報されていたかもしれない。

 最初はそれを茶化していた俺だったが、次第に笑えなくなっていった。


 神崎の顔面に大粒の汗が浮かんでいた。


 後部座席を勧めると、神崎は砂漠を彷徨って力尽きた旅人のように倒れ込んだ。

 冷房を強くする。神崎の吐息が荒くなっていく。過呼吸というやつだろうか。確かこういうときは袋を口に当てるといいらしいが、あいにく持ち合わせがなかった。神崎がダンゴムシのように体を丸めた。


「すまん、冷房強すぎたか?」

 温度を上げようとしたら「いえ、大丈夫です」と大丈夫じゃなさそうな声で言われた。


「……神崎、住所を教えてくれ。家まで送ってやるよ。今日はもう休め」

「でも……」

「辛いときは休めよ。俺なんか辛くなくても休んでるんだぞ」

 神崎が小さく笑った。

「ありがとうございます、樋口さん」

「いいってことよ」


 車をゆっくり発進させた。途中コンビニに寄ってペットボトルの水を買って渡した。だが神崎は少し口をつけただけで残してしまった。

 神崎はコンビニの袋を口に当てて喘ぎ続けた。


 しばらく走ると目的地に着いた。

 くたびれたアパートだった。

 壁は爆撃でも受けたように煤けていて、濃い緑色のツタが絡みついている。小さな庭があるのだが、雑草が生え乱れ、さながらジャングルのようになっていた。念のため訊いてみるも、確かにここのようだった。


 肩を貸して一番奥の扉まで連れていった。

「鍵、開けられるか?」

「インターホン、押してください……」

 言われた通りにすると、リコーダーをふざけて吹いたような音が響いた。

 すると女性が出てきた。


「聖也くん、どうしたの!」


 長い黒髪を静かな滝のように垂らした若い女性だった。

 俺は自分が会社の先輩であること、神崎の体調が悪くなったので連れて帰ってきたことを話した。

 女性は何度も頭を下げると、神崎を受け取った。

 神崎はまだ足もとが覚束ないようで、女性にもたれかかった。


「じゃあ神崎、お大事にな。部長には俺から言っておくよ。辛かったら明日も休んでいいからな」

 車に戻った。坂を下り、広い道に出ると、俺は女性のお腹がゆったりと膨らんでいたことに色々な想いを巡らせた。


      ●


 神崎のことを話すと部長は心配そうにうなずいた。俺が休むときとは態度がまるで違った。

「今朝の紙、まだありますか?」

 部長はまだ捨てていなかった。


 俺はその紙を、自分の席でじっと見つめた。


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