3 『GRAVITY 0』
コインパーキングに車を停めると、俺たちは外へ出た。辺りは閑散としていた。電柱にとまっている鳥の声が一番大きい音だった。その鳥が糞をした。白い糞が飛び降り自殺をした人間のように弾けた。
俺は区分けされた地図を広げて「今日はこのエリアを訪問していこう」と言った。
「まずは俺がやってるところを見てて」
近くの家のインターホンを押した。表札には《浅倉》と彫られていた。品の良さそうな女性の声がした。
「ごめんください。私、株式会社ライフクリエイトの樋口と申します。当社は美味しいミネラルウォーターをご提供しております。本日は浅倉様にも当社のウォーターサーバーをご紹介したく伺いました。お時間よろしいでしょうか?」
『ウォーターサーバー、ですか?』
「はい。近年水道水の危険性が叫ばれているなか、安心してお飲み頂けるお水をご提供しております」
神崎にも言ったが、水道水に危険性などない。だが不安を煽り購買意欲を湧かせる手法は営業の世界では有効とされている。
浅倉様は悩ましそうに唸った。
こういうとき俺はあえて押さないようにしている。
最後の一歩は相手の意思によるものでなければいけないと考えているからだ。
『すみません、特に必要ありません』
「かしこまりました。では資料だけでもご覧頂ければ幸いです。お忙しいところ、ありがとうございました」
通話が切れるとまた静寂がやってきた。俺は名刺とパンフレットを郵便受けに突っ込んだ。
「というのが主な流れだ」
「お話、聞いてもらえませんでしたね」
「まあな。でもそれが普通なんだよ」
いきなり知らない人間が訪ねてきて、話を聞いてみようと思う人間はそれほどいない。今の人は応対してくれるだけ良心的だった。
「出てくれないのが普通。断られるのが普通。暴言や塩をぶつけられるのも普通だ」
この仕事で大切なのはそれらを真正面から受け止めないことだ。
否定されてもそれは自分が否定されたわけではないという、もう一つの視点を持つことだ。
真面目な奴ほどこの仕事は長続きしない。
その後も住宅街を歩いていったが、芳しい結果は得られなかった。誰一人として扉を開けてすらくれなかった。
これほど調子が悪い日も珍しいのだが、神崎にこれが現実だと教えるにはよかったのかもしれない。
俺は薄っすら浮かんだ汗を拭うと「やってみる?」と訊いた。
「はい。やらせてください」
さっきから監督に猛アピールするピッチャーのような視線を感じていた。
新人なら萎縮する場面だろうに、早くやらせてほしいというのは常軌を逸している。
「わからなかったらフォローするから」と俺は言った。
神崎がインターホンを押すと柔和な声の女性が出た。
「ごめんください。私、株式会社ライフクリエイトの神崎と申します。当社は美味しいミネラルウォーターをご提供しております。本日は宮永様にも当社のウォーターサーバーをご紹介したく伺いました。……お時間よろしいでしょうか?」
初めて喋ったとは思えないほど洗練されていた。むしろ声が良い分、俺より安心感があった。しかし最後の部分だけは有無を言わさぬ迫力があった。
『は、はい。少々お待ちください』
慌ただしい足音の後、エプロンをつけた年配の女性が出てきた。
神崎はファンと握手をするアイドルのように微笑んだ。
「初めまして。株式会社ライフクリエイトの神崎と申します。宮永様、最近お体の調子はいかがでしょうか? 痛いところなどございませんか?」
「痛いところ……。最近、膝が痛いんですよねえ」
「それはもしかすると、ミネラルやマグネシウムが不足しているためかもしれません」
「はあ。そうかもしれませんねえ」
それらが何なのか、きっと彼女はわかっていないだろう。俺もわかっていない。
「でしたらぜひ、当社のウォーターサーバーをお試しください。当社のミネラルウォーターにはミネラルやマグネシウムがふんだんに含まれておりますので、お飲み頂いたお客様からは、肩や腰、膝の痛みが和らいだとのお声を多数頂戴しております」
「まあ、そうなんですか」
確かにそんな声も稀に届く。
しかしなぜ神崎はそれを知っているのだろう。
「成長期のお子様にも必要な栄養素です」
車の横に小さな自転車が置かれていた。
「そうですよねえ。うちの子、好き嫌いが多いから」
「カルシウムも含まれていますよね? 樋口さん」
いきなり振られて一瞬だけ戸惑った。
「ええ、当社のミネラルウォーターは特殊なろ過システムを使用し、天然水から不純物を取り除いた後、体に良いとされるミネラルやマグネシウム、カルシウムなどを配合しております。これらには疲労回復効果や成長促進効果があると言われております」
言われているだけだ。本当にそんな効果があるのかはわからない。
しかし世のなかの多くの商品が同じような文言を採用している。なぜなら効果があると断言したら嘘になってしまうからだ。
牛乳は健康に良いとされているが、されているだけで必ず健康になるとは誰にも言えない。俺は一杯飲むだけで腹を壊す。
「それが月々……」
神崎が目配せしてきた。俺は察して続けた。
「月々三千円からのコースがございます。入会金やお水の配送料、サーバーレンタル代などはかかりません。さらに今月限りのキャンペーン(毎月やっている)で、今ご契約頂くと一ヶ月無料でご利用頂けます」
宮永様は悩んでいた。俺はこんなときは、あえて押さないようにしているが、神崎は違った。
「絶対美味しいと思います。どうかお願いします」
その横顔を見て、俺は新人の頃を思い出した。
「……じゃあ、お試しさせて頂こうかしら」
「ありがとうございます!」
神崎の笑顔が弾けた。
家のなかへ招かれると、神崎はパンフレットを広げながら寄り添うように説明していった。わからないところはその都度俺に確認を求めた。その初々しさに胸が高鳴った。使用するサーバーや配送日などを決めると、宮永邸を辞した。そして少し歩いた後「すごいな」と俺は言った。
「いえ、樋口さんのおかげです。樋口さんのフォローがなかったら、こんなに上手くいきませんでした」
「そんなことない」
俺は誰でも言えることしか言っていない。俺はたまたまそこにいただけだ。
「初めての飛び込みで成約までいっちゃうなんて、本当にすごいよ」
普通ならお客様の前でなどまともに喋れない。帰れと言われるのが落ちだ。
「それにしても、よくすらすらと説明出来たな」
「車のなかでパンフレットを読んだので、それを言えばいいと思いました」
「これ、覚えたの?」
「はい」
微笑む神崎。
腹の底が冷えるのを感じた。
「……次も、やってみるか?」
スポーツの試合と同じように仕事にも流れというものがある。科学的な根拠はないが、しかしプレイヤーとして動いていると、大きな流れの始まりとでも言うべきポイントが何となくわかることがある。俺はその感覚を信じ、神崎とインターホンを押していった。
●
会社に戻ると敵軍の大将首を取ってきたような称賛に包まれた。いや、包まれたのは主に神崎のほうだったが……。
そのまま神崎の歓迎会が開かれた。
居酒屋に来たのは久しぶりだった。
神崎は称賛に対して何度も「いえ、樋口さんのおかげです」と何度も俺の名前を出してくれたが、先輩たちはそれをまともに受け止めなかった。
午後は神崎一人でも契約が取れていたので、あながち間違いでもなかったが……。
先輩を立てることを忘れない後輩の鑑だと、神崎はいっそう可愛がられた。俺は一番端の席で、泡が消えた生ぬるいビールをちびちびと飲んでいた。すると輪から外れた部長が隣にやってきた。部長は日本酒の入ったお猪口を煽ると「よくやったな」と俺の肩を叩いた。
「神崎がすごいんですよ」
神崎の成長力は目を見張るものがあった。この一日で神崎は集団から一歩も二歩も抜きんでた存在になった。やはり人間が最も成長するのは現場の最前線なのだ。それはかつてこの人が俺に言ったことだった。
「そうだな。まさか配属初日にこれだけ契約を取ってくるとはな。前代未聞だ」部長が口を大きく開けて笑った。「だが神崎くん一人じゃここまで出来なかっただろう。誇っていいぞ、お前は後輩を育てたんだ。これからも先輩として色々教えてやってくれ」
「俺に教えられることなんてあるんですかね」
「どうしてお前はそう暗いことしか言えないんだ。お前はやれば出来るんだから、もっと自信を持ってだな──」
すると一際大きな声がした。
「おい新人、お前このまま樋口の記録を抜いてくれよ」
俺はそちらへ耳を傾けた。
「樋口さんの記録、ですか?」
「ああ、あいつな、一年目のときに年間契約数で一位になったんだよ。しかもそれが未だに会社の最高記録なんだぜ」
未来の社長なんて言われてたよな、と別の先輩が言うと大笑いが起こった。
「お前はあいつみたいになるなよ」
指を差されたのがわかった。部長の額に何本もしわが出来ていた。
しかし話題が変わると俺の名前は出なくなった。俺はまたグラスに口をつけた。大学生らしき集団が騒ぐ声や元気を売りにした店員の叫び声が店内を飛び交っていた。グラスが派手に割れる音がした。
●
神崎は次々と結果を出した。
入社して間もないのに俺より会社に馴染んでいた。
多くの女性社員が神崎に熱い視線を向けていた。
まだ試用期間なので俺と一緒にいるが、もう神崎は俺がいては邪魔になるくらいだった。むしろ最近は『樋口さんは寝ていて大丈夫ですよ。全部僕にまかせてください』と取ってきた契約の半分を俺に回してくれていた。
普通なら新人が生意気なことをするんじゃないと憤慨するのだろうが、俺はその申し出をありがたく受けていた。
神崎はまるで魔法をかけるように話を聞き出し、的確なタイミングで商品を紹介し、気づけば契約を勝ち取っている。
神崎が上司になり、俺に命令を出すところを想像してみた。
それはとても現実味があった。しかし嫌悪感はなかった。周りは性懲りもなく未来の社長だのと神崎を持ち上げていた。