11 『メメント・モリ』
帰宅するとスーツやネクタイと同じように自分の体もベッドに投げ捨てた。
ベッドが軋み、ニワトリの断末魔のような音が響いた。
仰向けになると天井の汚れが目についた。それが段々、人の顔に見えてきた。その視線から逃れるように体を丸めた。
今日も落ちただろう。面接官の反応からそれが察せた。苦労して作った履歴書がまた無駄になるのかと思うと、ため息が漏れた。
腹が減ったが、湯を沸かす気にもなれなかった。
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神崎はあの日、朝早くバスと電車を乗り継いで東北行きの新幹線に乗った。
だがしばらくして神崎の様子がおかしいことに車掌が気づいた。神崎は顔を真っ青にし大量の汗をかいていて、尋常な様子ではなかったという。声をかけたが受け答えも出来なかったため車掌は無線で応援を呼んだ。
直後、神崎はポケットに忍ばせていたナイフを車掌の首に突き刺した。
そして周囲にいた乗客を次々と刺して回った。
車内が血に染まった写真を俺は見た。
それはこの世の地獄と呼んで差し支えないものだった。
しかし神崎は突然暴れるのを止めると、大声で泣き出した。そして誰もが困惑しているなか、血にまみれたナイフを自分の首に突き刺した。
通路に倒れた神崎は動かなくなり、救急車で病院に運ばれたが、意識が戻ることはなかった。
死者は神崎を含めて六名、怪我人は九名。死者のなかには小さな子どももいた。
この事件は世界を震撼させた。犯人に対して全方位から怒りの感情が向けられた。だがそれは翌日になればみんなすっかり忘れて、また別の事件に怒り始めるような、よくある事件の一つで終わるはずだった。
しかし犯人の素性が露わになると、世界の感情のブレーキが壊れた。
みんなが犯人を知っていた。忘れていても思い出した。
かつて非人道的な惨殺劇を繰り広げた少年のことを。
悪意という悪意が、呪詛という呪詛が、死んだ神崎に痰のように吐きかけられた。
神崎聖也という人間が粉々にされていく。みんなが事細かに神崎のことを調べ上げ、俺の前に晒してくれた。それはフレンチのフルコースのようだった。
そのうちの一つに、元同僚の女性にインタビューをした動画があった。女性はリポーターに、神崎がいかに恐ろしい存在だったかを、給湯室で襲われそうになったというエピソードとともに語った。
会社は現在多忙の極地にあるらしい。
あんな殺人者が売りつけた水が飲めるかというクレーム対応に追われているようだ。中には裁判を起こすつもりの人もいるとか。会社は風前の灯火だった。
そもそもどうして神崎は東北行きの新幹線に乗ったのか──すると、ある週刊誌が現在行方不明になっている両親が仙台で暮らしているという記事を書いた。それが真実ならば神崎は両親に会いに行こうとしたのだろうか。しかしそれとポケットに忍ばせたナイフにどんな関係があったのだろうか。
俺は警察に簡単な聞き込みをされただけで舞台を下ろされた。
世界が熱くなればなるほど俺の心は冷めていき、見るものすべての輪郭がぼやけていった。
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ナイフをじっと見つめた。ナイフは台所の明かりに鋭く煌めき、その刃が容易に人を殺傷出来ることを主張していた。
首に近づけていく。
刃が首すじに触れた。刃の冷たさが全身に伝わった。
少しでも動かせば皮膚が引き裂かれるだろう。力をこめて突き刺せは血が噴き出るだろう。
血はきっと温かい。
凍ってしまった色々なものを、優しく溶かしてくれるに違いない。
しかし俺は血を流せなかった。
俺は膝をつき、ナイフを落とした。
そして顔の前で両手を組んだ。強く組み合わされた指が、流されなかった血で赤く染まった。
俺は旅立った二人の友人のために、いつまでも、いつまでも、幸福を祈り続けた。
〈了〉




