1 『Velonica』
誰かに呼ばれている。だが誰に呼ばれているのかはわからない。声はするのだが、それは深い洞窟の底から響いてくるようで、何とも判別しがたい。
もしかしたら俺は誰からも呼ばれていないのかもしれない。他の誰かを呼んでいるのを、自分が呼ばれているのだと勘違いしているだけかもしれない。
すると頭に雷が落ちたような衝撃が走った。
「樋口、聞いてるのか」
振り向くと部長が立っていた。部長に頭をはたかれたらしい。
「はい。聞いてました」
「じゃあ今、俺は何て言った?」
「『今月のノルマは達成出来たのか?』……」
部長が月末に言うことなどそれくらいしかない。だが部長の顔にはゆっくりと鋭いしわが刻まれていった。
「馬鹿野郎」部長が怒鳴った。「俺はまだ何も言ってねえよ」
「すみません、寝てました」
「もう他のみんなは外回りに行ってるぞ」
見ると営業部には部長と俺以外いなかった。
「お前そんなんでどうするんだよ。このあいだ佐藤にも成績抜かれただろう。後輩に負けて悔しくないのか」
「いや、まあ、はい、悔しいです」
「何だその態度は」
部長の声がさらに大きくなった。大型の肉食獣に吠えられているようだった。俺は部長の言葉を聞きながら、しかしそれらを反対の耳から出していった。
そうしているうちに声はでこぼこの道が舗装されるように平坦になっていった。
「樋口、お前はやれば出来るんだから。新人の頃を思い出せよ」
「外回り、行ってきます」
鞄にパンフレットを突っ込むと席を立った。
すると部長が言った。
「今度また新人が入ってくる。二十二歳の子だ」
「それは大変ですね」
「お前の下につけるぞ」
「えっ」
「お前が一から育てろ。お前も人を育てれば意識が変わるだろう」
俺は顔をしかめた。
「何だその顔は。……まあいい、頑張れよ」
適当に返事をし、外へ出た。
鮮やかな水色の空に白い雲がいくつか浮いていた。
車を発進させる。昼下がりの大通りは車でいっぱいだった。詰まる直前の血管のようだった。
俺はアクセルをゆっくり踏みながら、今日はどこで時間を潰そうかと考えた。