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吉村邸の玄関で使用人の娘に迎えられた2人に、顔を真っ青にした沙織が奥から倒けつ転びつ近寄ってきた。
「早く! 早く来てください!」
必死の形相で訴える沙織を優哉が支える。
挨拶もせぬまま、沙織の案内通りに屋敷の奥に進んだ2人は、ドアが開いたひと部屋へ踏み入った。
壁に1枚の画がかけられていたので、すぐに和彦の部屋だと分かったのだが。
「あ!」
優哉は思わず驚きの声をあげた。
眼前の画には。
楽しそうに笑い合う青年と少女が描かれていた。
「これは…」
「和彦が…和彦が…」
沙織の口が震え、上手く言葉が出てこない。
「あら? もう、あっちに行ってしまったのね」
純子の声は、極めて落ち着いていた。
「純子?」
優哉の呼びかけには反応せず、純子は画を眺めている。
「いったい何が?」
優哉が沙織に訊いた。
「それが…」
沙織がつかえつつも、事のあらましを語り始めた。
「純子さんにお力添えをいただくことを和彦に説明しましたら突然…」
沙織の瞳が、みるみるうちに涙で潤んだ。
「部屋に閉じ籠ってしまって…仕方なく合鍵で開けると…和彦が…和彦が画の中に!」
「2人は、それだけ愛し合っているのよ」
純子がケロッと告げる。
「愛し合う…? 愛し合うって何ですか!?」
優哉の腕の中の沙織が声を荒げた。
その顔には苛立ちが浮かんでいる。
「ん?」
純子が初めて、沙織を正面から見つめた。
その目力の強さに、怒っている沙織が思わず眼を伏せた。
「あなた、誰かを好きになったことがないの?」
「え………?」
「弟さんは運命の人に出逢ったのよ。それをあなたが引き裂こうとするから、あちらへ逃げてしまった」
「………あちらって…」
純子が黒レースの手袋をした右手の人差し指で、壁の画を指す。
「そんな…あり得ません!」
「いいえ、あり得るわ。実際、今、こういう状況じゃないの」
純子が左の眉をクイッと吊り上げる。
「世の中には説明の付かない不思議な出来事がたくさんあるのよ」
純子の言葉に感情が昂ったのか、沙織は優哉の胸に顔を押し付けて泣き出した。
純子は抱き合う2人から、スッと視線を逸らす。
「純子」
優哉が呼んだ。
「何?」
「何とかならない? これじゃ、沙織さんがかわいそうすぎる」
「あら?」
純子の唇が歪む。
「じゃあ、この画の2人はかわいそうじゃないと? 恋愛は本人たちの自由だと思うけど」
「これは普通の事態じゃない。沙織さんにも時間が必要だよ」
純子の視線が泣き続ける沙織に向けられた。
しばらく、苦虫を噛み潰したような顔で見つめていたが。
「分かったわ。弟さんと話し合う機会を作ってあげる」
沙織が顔を上げた。
「本当ですか!?」
「ええ」
純子が頷く。
「ただし、わたしが手を貸すのはそこまでよ。後は姉弟で解決して」
そう言うと、純子は右手の手袋をゆっくりと外した。
白魚のような美しい手が現れる。
手のひらを画に向けた。
優哉と沙織からは、純子の手がよく見える。
意図が分からぬ行動に、2人は呆気に取られた。
「「あ」」
優哉と沙織が同時に驚く。
純子の白い手のひらに、1本の横線が入ったのだ。
その線は次第に上下に開き始めた。
裂け目の下から、濡れ光る瞳が出現した。
黒い単眼は様子を確かめるように左右に動いてから、和彦と少女の描かれた画をじっと見つめた。
すると、徐々に瞳が輝きだした。
優哉と沙織はあまりの怪事に言葉を失い、ただただ呆然と純子の手のひらを魅入られたように見つめている。
さらに光は強くなり、2人は眼を開いて居られなくなった。
輝いた時と同じく、ゆっくりと光が弱まっていく。
優哉と沙織が、恐る恐る眼を開いた。
純子の手のひらの瞳が消えている。
黒レースの手袋を再び、はめた。
優哉は背後に人の気配を感じた。
振り向くと、画に描かれた青年が現実の人間として立っている。
後ろの画には、少女だけが残されていた。
「和彦!」
沙織が優哉の胸から飛び出し、帰ってきた弟を抱き締める。
「姉さん………」
和彦の顔は真っ青だった。
次々と起こる怪現象に優哉が絶句していると、純子が「さあ、帰るわよ」と袖を引っ張った。
「ええ!? でも…」
「でもも、へちまもないわ。ここからは姉弟で話し合うしかないの」
優哉は抱き合う2人を心配しつつも、純子に連れられて部屋を後にした。