差し伸べられた手
猫の姿にさせられてしまい、どこに逃げていいのか分からず、街に出た私は思わぬ迫害にあった。
「うわ〜見ろよ! スッゲー酷い顔した猫がいるぞ!」
「本当だ〜。石投げてやろうぜ!」
悪ガキどもがワラワラと湧いてきて、私に小石を投げてくるのだ。
助けを求めて親切そうな人を探し、本屋の前にいた中年女性に駆け寄ると、逆にハタキで追い払われた。
誰も私に手を差し伸べてくれないどころか、害虫でも寄ってきたみたいに血相を変えて敵意を剥き出しにしてくるのだ。
もう、どうしたらいいのか分からず、途方に暮れた。
水溜りに映る姿も、窓に映る姿も、何度確認しても私は猫だった。
季節は初秋とはいえ、夜は冷える。
(毛に覆われているのに、猫もこんなに寒さを感じるなんて、知らなかったわ)
丸くなって草むらの上で睡眠を取り、翌日は空腹を感じて食べ物を探した。
とはいえ、ゴミ箱の中の残飯は食べたくないし、ネズミなんてもってのほかだ。
子爵邸の近くまで戻って屋敷の様子を見ると、馬車が何台も止まっており、人が大勢詰めかけていた。その様子に興味を惹かれたのか、近所のご婦人達が、わらわらと集まってきている。
「ディラミン家の長女が、失踪したらしいわよ!」
彼女たちは、好奇に満ちた眼差しで、屋敷を見つめていた。
我が家は三度目の醜聞に襲われていた。
空腹と恐怖の中で、数日を過ごした。
あてどなく街中を彷徨い、仕方なく仲間に入れてもらおうと野良猫の集いに顔を出すと、蜘蛛の子を散らすように逃げられた。
この凶暴顔が、同族から見ても怖かったらしい。
やがて日没とともに、雨が降ってきた。
ずぶ濡れになっても、どんなにお腹が空いても子爵邸に戻る気はしなかった。
こんな姿を父やマクシムに見られたくなかった。
少しでも施しをくれそうな裕福な人に会えることを願って、王都の大通りに座り込んだ。貧しい花売りの少女や、マッチ売りの少年に混ざり、仕立ての良い服をきた人が通るたび、哀れっぽく鳴いてみせるが、誰も猫になど目もくれない。
大通りの先はこの王国の国王が住む王宮があり、そこから出てくる馬車は間違いなく貴族たちのものだったが、物乞いたちに気がついても誰も止まってはくれない。
間もなく体力の限界が近づいた。
寒さに震えながら、街灯に寄りかかる。
この天気の悪さから、もう慈悲を乞うのを諦めたのか、花売りの少女もマッチ売りの少年も、どこかにいなくなってしまった。
(どうして、こんなことになったのかしら。これからどうすれば良いの? 誰か助けて……)
呪術は禁忌のはずだった。
この世界にはかつて強大な力を持った呪術師たちがいた。やがて呪術者の一人が大陸全土を支配し、皇帝を名乗った。
皇帝は呪術の力を借りて圧政を敷き、民は苦しんだ。呪術は代々受け継がれ、この皇帝一家による邪悪な支配は三百年に及んだ。だが八百年前、ついに一人の男が立ち上がった。
男は水晶には呪術が効かないことを突き止め、勇者を集めて「水晶騎士団」を結成した。
水晶の剣を掲げた騎士団は、虐げられていた数多の民を率いて呪術師たちに反旗を翻し、この邪悪な帝国を倒したのだ。男は英雄となり、国王の座に就いてエーデルリヒト王国を建国した。この初代国王は、マクシム王子の先祖にあたる。
その後、呪術を使うことは大陸全土で異端扱いされて、今は呪術師などいなくなったはずなのに。
助けを求めて鳴き続けていると、すぐそばを一台の馬車が通った。焦茶色の二頭仕立てで小ぶりな馬車だが、精巧な装飾が扉や窓枠に施されており、非常に見栄えする。
貴人が乗っているのだろう。
「ブミャーゴ、ナーゴ(私を拾って、死んじゃう…)!」
必死に訴えるが、無情にも馬車は走り去っていく。
ここで救いの手を待っていても、何にもならない。
ようやく悟ると、私は最後の力を振り絞って王都の馴染みの紅茶館に向かった。人の善いあの店主なら、ミルクの一杯くらい、くれるかもしれない。
だが紅茶館に着くと、壁と扉が私と中を隔てていた。
入り口のドアを猫の姿では、開けることができない。雨のせいで私の鳴き声も、中にいる人々に届かないようだ。
(もうだめだ……)
ついに精魂尽き、立っていられなくなった。
尻尾を体に沿わせてささやかな暖をとり、小さくなって目を閉じる。
ここでやっと中から客が外に出てきたのか、紅茶館の扉が開く音がしたが、もう目を開ける気力もない。
ふと、雨が緩んだ気がした。
重たい瞼を押し上げて目を開けると、目の前に黒いブーツを履いた足が見えた。
パタパタ、と傘を雨が打つ音が上から聞こえる。
「お前、大丈夫か?」
頭上から優しい声が聞こえた。
一人の長身の男が、私の前に立って傘をさしてくれているのだ。
首を一生懸命のけぞらせて見上げるが、街灯の逆光で顔がよく見えない。
震える足でなんとか立ち上がり、消え入りそうな声で鳴く。
「ぶ、ブニャ〜…」
「こんな雨の中、可哀想に。……雨宿りする寝ぐらもないのか?」
猫になってから初めて聞いた、私を気遣う優しさの滲む声だった。
気がつくと男の背後には、先ほど私の前で一旦止まったこげ茶の馬車が来ていた。男を迎えに来た馬車だろうか。
どうやら偶然にも再度遭遇したらしい。
「それとも誰かをここで、待っていたのか? 似た者同士だな。……どうだ、私と一緒に来るか?」
久しぶりに触れた思いやりに、泣けるほど嬉しくて、前足を彼のブーツにそっと乗せる。そのままこの救世主を逃してはなるものか、と男の片方の足の上に腹這いになって乗り、全身で彼に縋りつく。
ふっ、と頭上で男が笑った音がする。
「随分人懐こいじゃないか。――そうしがみつくな。抱っこしてやろう」
男の長い腕が伸ばされ、私を抱え上げる。
長い毛が雨水を吸っていて、ビショビショの私を抱っこしたら濡れてしまうだろうに、男はそんなことはまるで気にする様子もなく、腕の中に抱いてくれた。
その暖かさに安心しすぎて、私は気を失った。
目が覚めると私はタオルに包まれていた。
かなり体の毛が乾いたのか、もう寒くない。
足の下が妙に不安定なことに気がついて、見下ろすと黒いズボンを履いた太ももが見える。
ガタガタという音と、太ももを通して伝わる振動から、自分が馬車に乗っているのだと分かる。
座席は茶色い革張りで、ツタが絡まる装飾が彫られた金色の手すりが見える。
(内装まで随分豪華な馬車ね……)
私を拾ってくれた男は、かなり裕福な人物のようだ。
顔を見ようと身じろぐと、上から声が降ってきた。
「気がついたのか?」
顔を上げた私の目が男の顔を捉えたのと、彼の手が私の背の上に載ったのは、ほとんど同時だった。
そして男の顔を見とめた私は、パニックのあまり跳躍してしまった。
ブミャー、シャーっ(嘘でしょ、嘘)!! と鳴きながら、驚きすぎて車窓のビロードのカーテンを登ろうとして、自分のあまりの体重に滑り落ち、爪を立てて裂いてしまう。
「落ち着け」
床に落ちた私を抱き上げようと男の手が伸ばされ、それから逃げるように私は向かいの座席に飛び乗り、正面に座る男を見つめる。細い目を、極限まで大きく見開いて。
私はその男を、知っていた。
(ど、ど、どうして。まさか、この人に拾われるなんて!)
その美貌と不思議な髪色は、一度見たら忘れない。肩先ほどまである髪は後ろで括られていたが、相変わらず白金のように煌めいている。
(こんな所で、また会うなんて!!)
雨に打たれて死にかけていた私を助けてくれたのは、エーデルリヒト王国元帥、メルク公爵だった。
私たちは、先日最悪の出会いを果たし、挙句に結婚を控えた仲なのに。
まさか、そんな彼に拾われるなんて。
ありがたいやら、困るやら。世の中には残酷な偶然があるものだ。
心の中で冷や汗を大量にかきながら、目の前に座る元帥を見つめていると、私の頭が大きすぎるせいでバランスを崩し、座席を転がり落ちて顔面を床にぶつけた。
「ブギャッ(痛っ)!」
ただでさえ潰れている顔が、もっと潰れてしまう……。
猫らしからぬ失態を恥じつつ起き上がると、前脚の付け根に手が伸ばされ、元帥に抱き上げられた。彼はそのまま私を向かいの席に再び座らせ、実に楽しげな表情で、私の頭を撫でた。
「どこも痛くないか? それにしても実に面白い顔をしているな」
その引き込まれるような美しい笑顔に、しばし虚を衝かれる。
(この元帥でも、こんな風に穏やかに笑うのね……意外だわ)
驚き過ぎて、心臓が痛い。
気がつくと馬車の速度が速くなり、脚元に伝わる振動が小刻みになっていた。
建物ひしめく王都の街並みを抜け、郊外に出たのだ。
元帥は向かいの席に立つ私に、宥めるように言った。
「怯えることはない。私の屋敷はなかなか快適だぞ。温かいミルクも、パンもすぐに用意させよう」
「ニヒャッ(本当に)!?」
思わず元帥に近づき、期待に満ちた眼差しを彼に向けると、彼は肩を揺らして実に愉快そうに笑った。
「鳴き声まで変わっているな。個性的で、よろしい」
思わず口をつぐんでしまうと、頭をそっと撫でられた。
「うちの猫になるか? 私はラインハルト・ヴァレリー・メルク公爵だ」
知っている。
たぶん、あなたの名前を知らない人は、この王国にはいない……。
元帥が広大な公爵領を治めていることも、間違いなく誰もが知っている。彼の領地だけを歩いて、エーデルリヒトの端から端まで行けることも。
私が大人しく頭を撫でられていると、元帥は滲むように笑った。
「私の屋敷の者たちは皆、善人ばかりだ。公爵邸の猫はきっと、野良猫より居心地いいぞ? 心配いらない」
元帥がこんなに優しい声で話すこともあるなんて、全然知らなかった。