妹の呪術
目の前にいるのはたしかに妹のエミリアなのに、私が今まで見たことがない、別人のようなエミリアだった。
「わたくしが賞賛されるたびに、あんたは卑屈になって本当に滑稽だったわ。わたくしに光が当たるのは、当然の結果なのよ。全て自分の努力で手に入れてきたのだもの。あんたはこんなに裕福な国の貴族の家に生まれたくせに、何一つ努力しなかったのだわ」
辛辣な内容とは裏腹に、妹は艶然と微笑んだ。
「でもあんたの持ってるものは、これで全部わたくしのものよ。マクシムもこの家も」
妹はベッドにゆっくりと近づいてきた。
ベッドに座り込んだまま、目を見開いて妹を見上げる私の顔を覗き込むと、彼女は囁いた。
「ねぇ、知っていた? お父様はね、媚薬でお母様に夢中になったの。お母様はお父様が大好きで、ある時飲ませてしまったのですって。お母様はそういう薬を作るのが得意で――呪術師だったのよ」
「じゅじゅつし?」
何を言っているのだろう。
だって、そんなはずない。
昔、この大陸には呪術を使える者たちがたくさんいたらしいけれど、今では使用が禁止されていて異端扱いだ。かつて呪術でこの大陸を支配した残虐な皇帝も実在したが、彼は勇者に討伐された。
エーデルリヒトで呪術を使うことなど、国のエリート集団である水晶騎士団が絶対に許さない。
呪術者を名乗ろうモノなら、異端審問官を務める水晶騎士団がすぐにやってきて、投獄されてもおかしくない。
だが妹はとっておきの秘密を明かすように、愛らしい声を小さく潜めて続けた。
「お父様とお母様は結婚して、私が生まれて。豊かなエーデルリヒトで優雅に三人で暮らす予定が、あんたのせいで色々と狂ったわ。しかもお金持ちの伯爵夫人が母親がわりだなんて。おまけに王子様が婚約者ですって? 赤毛の豚のくせに、ずるいったらないわ」
あまりの物言いに、ゾッとする。
私に向けられた妹の青色の目は、今は憎しみしか宿っていない。
「でもね、お母様は体だけでなく、心も弱い人だった。いざエーデルリヒトに来てみれば、故郷を懐かしがってしまって。おまけに媚薬の効果が切れて、お母様とお父様が不仲になると、自分への愛が呪術の結果でしかなかったと改めて知って、悲しんだりして。媚薬を二度と使おうとはしなかったの。おまけに事もあろうに、私を連れてガルネロに帰りたがったわ。ほんと、迷惑!」
あの色白で線の細い、義母を思い出した。
義母はいつも故郷の料理や空気を、恋しがっていた。
あの義母と呪術者という単語が、私の中で全く繋がらない。
「信じられない? 禁じられてきたけれど、呪術は私の血族の密かな誇りであり、古の皇帝を始祖にもつ証なのよ」
とても嬉しそうに邪悪な報告をしてくる妹に、全身の鳥肌が立つ。
血族とは、ガルネロ王国にいる私とは血のつながらない、義母の実家のことだろう。
「一族は生き延びるために、長年人前で呪術を使うことを禁じてきたけれど、そんなのおかしいわ。だって、わたくしはお母様よりも、もっと強大な力の持ち主なんですもの」
私の困惑をよそに、妹は陽の光のような輝く髪の毛を、細い指で耳たぶにかけた。そのまま愛らしく小首を下げ、少し物憂げに言う。
「でも、マクシムって今は王子様だけれど。結婚したらただの子爵になってしまうのよね。それなのに、お姉様は公爵夫人になるの? そんなの、おかしいわ」
「エミリア、何を言っているの?」
「お姉様の子は将来公爵になって、わたくしの子は子爵だなんて。わたくしの子をお姉様の子がアゴで使う未来なんて、見たくもない。――わたくしのマクシムに捨てられた赤毛の豚が、わたくしより上位の立場になるなんて、認めないわ」
上位だなんて、考えたこともない。
妹は私と違って愛ある結婚ができるのに、一体何を怒ることがあるのか。そもそも私から婚約者を奪ったのは、彼女自身なのに。
妹は天使のように綺麗な顔をつんと反らし、言った。
「わたくしが実力で手に入れた、幸せな結婚に水を差さないでほしいの」
「エミリア、どうしちゃったの……?」
「冴えないお姉様がわたくしより幸せになるなんて、おかしいでしょ? 女の子はわたくしのように誰より努力した子が、報われるべきだもの。お姉様は女の敵だわ。――勝ち誇るお姉様なんて、見たくもない。どうせわたくしを辺境王国の娘だと思って、見下しているんでしょう?」
「や、やめて。そんなつもりじゃないわ」
「ーーだからお姉様には、猫にでもなってもらうわ」
妹が言っていることが、分からなかった。
妹はマクシムからもらった指輪がはまる左手を胸の前にあげ、親指にはめた銀色の指輪を右手の人差し指でそっと撫でた。それは私が初めて見る指輪だったが、暗い室内にもかかわらず、怪しいまでに金色に輝く、かなりゴツく大きな指輪だった。
台座にはブラックダイヤモンドのような、黒い石が載っている。
困惑する私の前で妹は手を掲げ、何事か呟いた。低い呻きにも似たその短い呟きが、おそらく呪術師の呪文だと気づいたのは、その直後だった。
「ーーっ!!」
妹の手から一瞬眩しい光が炸裂し、真っ直ぐに私に向かう。
直後、逃げる間もなく私の全身が光に包まれ、私の体はベッドに仰向けに倒されたまま、体が全く動かせなくなった。鎖にでも縛られたように。
喉まで動きを拘束されたのか、助けを呼ぶ声も出せない。
かと思うと次の瞬間、体が熱に襲われた。熱さは勢いよく増し、全身が焼き尽くされるように熱くなっていく。火に触れたような熱さではなく、体の内側さえも沸騰するような、そんな猛烈な熱だ。
明るすぎる光のせいで瞼の裏まで眩しく、目を見開いているのに何も見えない。
(殺される!?)
ベッドごと燃やされるのだろうか。
骨の奥まで焼かれるような熱さに耐えかね、必死に叫ぶも声にならない。
やがて拘束が解け、光は霧散した。
だが強すぎた光のせいで目の奥までが貫かれ、まだ視力が回復しない。何も見えない。
ようやく動かせるようになった手足を振り回して暴れると、ベッドから転がり落ちた。
全身に未だくすぶるあまりの熱に、床に落下した痛みはまるで感じない。
そうして床に転がっていると、次第に熱もおさまっていった。
はぁはぁという私の荒い息だけが部屋の中に聞こえる。
酷い目眩を感じながらもどうにか目を開けると、妹はすぐそばに立ち、傲然と私を見下ろしていた。その口角がぱっと上がり、妹は軽やかに笑った。
「お姉様! 素晴らしいわ!! こんなに不細工な猫を、わたくし見たことないわ!」
猫?
何を言ってるんだろう、と顔を下げた私の視界に飛び込んできたものは、毛むくじゃらの白くて短い前脚だった。まるで、猫の手のような……。
(なにこれ?)
驚いて自分の手を動かすと、猫の手が同じく動く。
私の目線と床までの距離が、異様に近いことに強烈な違和感を覚える。
(何これ? ――まるで急に私が小さくなったみたいな…)
ハッと顔を上げた拍子に気がついたのは、ベッドの隣に置かれた姿見に映る、一匹の猫の姿だった。
(えっ、猫……? これって)
恐る恐る鏡に近づくと、その白と黒の斑猫も近づいてくる。首を傾げると、その丸っこい猫の顔も傾げられる。
私の動きに合わせて、猫は動いた。
全身の血の気が、引いていく。
その背後に、妹が映る。彼女はとても良いことがあったみたいに、嬉しそうに微笑んでいた。
「わたくしって本当に天才だわ。また大成功だわ。これは、変身の術なの。わたくしの呪術で猫になったのよ、お姉様!」
「嘘よ!」と叫んだつもりだったが口から出たのは「ブミャッ!」という鳴き声だけだった。
全身が毛むくじゃらの完全なる猫の姿の自分に、激しく動揺し、頭が真っ白になる。
妹は青い瞳を動かし、ベッドサイドテーブルを見つめた。
そして急に何か面白いことを思いついたかのようにハッと口角を上げると、置かれていた小さな花瓶を手に取ってそれをひっくり返し、水を木の床にぶちまいた。
「ほ〜ら、お姉様。お水をあげるわ。今日からこうしてエサにありつくのよ。……なんて楽しいの!」
床の水溜りの前で震える私に、妹はなおも言い放った。
「お可哀想に。もうメルク公爵に嫁げないわね。それにそんなブサ猫だと、誰にも飼ってもらえないでしょ? わたくしが拾って女主人になって、これからマクシムと素敵な家庭を築いて幸せになるのを、全部見せてあげる!」
妹はそう言うと、ポケットの中から何やら赤く細いものを取り出した。首輪だろうか。
ニコニコと愛らしい笑顔を披露しながら、残酷にも私の首にその首輪を近づけーー私は素早く跳躍し、妹の背後に回った。
妹の飼い猫になんて、なるものか。一体どんな目に遭わされるか。
(逃げろーー! 逃げるしか、ない!)
「大人しくしなさい」
首輪を広げてなおも迫ってくる妹が再び手を伸ばす前に、ドアに向かって走る。
四本の足で走るのは、慣れなくて難しい。
おまけに今の私は、随分足が短いのだ。猫ってもっと、敏捷に動ける動物のはずなのに。
だが妹に捕まるわけにはいかない。パニックになりつつも、少し開いていたドアを前足でこじ開け、廊下に飛び出ると転がるように脱走した。
たまたま廊下の先のほうを歩いていた侍女の一人に救いを求めて、彼女に駆け寄る。
だが侍女は毛を逆立てて爆走してくる猫に恐れをなしたのか、悲鳴を上げてあっという間に逃げていってしまった。
「ブミャゴ、ナー(私、マリーなのに)……」
呆然と廊下で立ち尽くす。
その後ろから、コツコツと床を打つヒールの音が聞こえる。
「無理よぉ。その姿で、誰かが気づいてくれると思った? わたくしに飼われるのと、野垂れ死ぬのはどちらが良いかしらね?」
口を歪めて笑いながら、追いついた妹が首輪を片手に近づいてくる。愛らしい姿から滲み出る邪悪な内面に、本能的に身の危険を感じて背中の毛が一斉に逆立つ。
その血のように赤い首輪をなんとしてもかけられたくなくて、私は屋敷を飛び出した。