公爵家の事情と怖すぎる噂
予想をはるかに超える展開に目の前が一瞬にして真っ暗になり、呼吸さえ止まりそうだった。
倒れまいとこめかみを手で強く押しながら、尋ねる。
「あの元帥が? ーーどうして、私なんかを?」
父はよくぞ聞いてくれた、と言わんばかりに得意げに話し出した。
父によれば、近々、大陸の南にある大きな島・ゴロー島の提督の任期が切れる予定なのだという。そしてその後任として名が上がっているのが、メルク公爵らしい。
ゴロー島の提督は非常に大きな権力を持つ役職で、報酬も破格だった。
だが元帥にとって、遠い南の島の提督は魅力的なポストではない。魅力的ではないどころか、全力で拒否したいポストらしい。ゴロー島は一年中暑く、伝染病も多い。高額の報酬など、名門公爵家の元帥の前では大した吸引力にならないのだろう。
ここで必要になったのが、元帥の妻という存在だった。ゴロー島の提督は危険と隣り合わせな上、島の生活は文化的な程度が低く、女性や子供を連れて行くことができない。そのため、独身男性から選ばれるのが慣習となっていた。
「つまりだね、妻帯者になれば、提督の打診は晴れて免れるというわけさ」
「ええと、要するに元帥は南の島に行きたくないから、急いで結婚相手を探していたということ?」
「その通り。つまり、お前は公爵様に拾ってもらえるなんて、卑屈になる必要はないんだ。むしろお前こそが、公爵様をピンチから救える、言わば女神のような新妻という存在なんだから」
それは喜ぶべきところなのだろうか。
脳裏に蘇るのは、マクシムと幸せそうに見つめ合う妹のとろけるような青い瞳だった。
私の結婚と、なんて違うことか。
もちろん、貴族の結婚は家のためにするものであって、世の中にはもっと悲惨なケースも多い。
捨てられポッチャリマリーの私なんかが、贅沢を言うものではないけれど。
いや、子爵家からすれば、あのメルク公爵に嫁ぐなんて、贅沢そのものな訳だけれど。
それにしても、あの時夜会でなぜ元帥が急に近づいてきて、私の真後ろに立ったりしたのかが、やっと分かった。父から話を聞いていて、私に気がついて、きっと私に声をかけようとしていたんだ。
(だけど!! いくら渡りに船の縁談だったとしても、相手とあんなに最悪な出会いをしてしまったら、普通は断らない!?)
紅茶館で涼しくカップを傾ける元帥を思い出す。あの向かいの席に自分が座り、爆心地に混ざる姿なんて、想像もできない。
「お父様。もう少し、考える時間を頂戴」
「事情が事情だからね。元帥も急いでらっしゃるんだ。元帥には弟が一人いるらしいが、彼もこの結婚に大賛成をしてくれているらしい」
「ご一家で変わってらっしゃるんだわ……」
だが両家の力の差は大きかった。
子爵家の「待って」は全く通用しなかったのだ。子爵家は火に飛び込んだ虫も同然だった。
こうして公爵家の強力な推進力のもと、私と元帥の縁談は怒涛の勢いで進んだ。ーー全ては多分、彼が南の島行きを逃れるために。
エミリアの縁談も順調に進み、世間から見れば子爵家は慶事が続くように見えただろう。
貴族同士の結婚には、まず双方の当主の結婚同意書の交換が必要だった。
同意書を交わしたあとで、式の招待客や概要を話し合って決めるのだ。
結婚同意書を交換をするために、ついに元帥がディラミン邸を訪ねることになった前夜。
私は結婚の覚悟がどうしても決まらなくて、父と話したくて書斎に向かった。
父の書斎のドアをノックしようとすると、中から話し声が聞こえた。どうやら先客がいたらしい。
「お父様、マクシムから婚約指輪をもらったの! ご覧になって、素敵でしょう?」
開きかけたドアのノブを握りしめたまま、私は硬直した。
見たくもないのにドアの隙間から、机に向かって椅子に座る父と、その隣に立ってはしゃぐエミリアが見える。エミリアは胸元にフリルがついた、黄色いドレスを着ていた。マクシムが、好きな色だ。
マクシムを喜ばせようと服を選び、そのいじらしさに更に愛を深めるマクシムの様子を想像してしまい、気持ちが落ち込む。私の失恋の傷は、まだちっとも癒えてなんていない。
エミリアはマクシムからの婚約指輪を大事そうに薬指にはめ、父に披露していた。
「とても大きなルビーだね、エミリア。殿下のお前への愛情の大きさが分かるよ」
「マクシムったら、式を早く挙げようって急かすのよ。私との結婚が、待ちきれないんですって! わたくしはお姉様が嫁がれた後にしないといけないわって言っているのにぃ」
「エミリア。それだけは譲れないよ。お前達のしたことは、決して褒められたことではないからね」
エミリアは不満げに可愛らしい頬をぷっと膨らませた。
「分かってるわ。本当に申し訳なく思っているの。けれど、私たち……愛し合ってしまったんだもの」
これ以上聞いていられなくて、ノブから手を離すとその場を離れる。
廊下を走り、自分の部屋に向かう途中で、侍女達が階段の踊り場で噂話に盛り上がっているのを聞いた。
「マリー様ったら大逆転よねえ。元帥は大陸随一と呼び声高い軍人であるばかりか、名門メルク家の当主だし、おまけに、輝くばかりの美貌のもち主なんでしょ」
「何言ってるの! そんないい話なわけないでしょ。あの元帥の裏の顔を知らないの?」
裏の顔?
侍女達に気づかれないように、足を止めて柱の影に隠れて息を潜める。
話の続きを聞かないわけにはいかなかった。柱に背中をピッタリと押しつけ、全身を耳にして聞き入る。
侍女達は少し声を小さくして話続けた。
「マリー様、流石に気の毒なのよ。メルク公爵といえば、大陸中で人を殺しまくった蹂躙好きの冷酷非道な軍人なんだから」
「そうよ。拷問が趣味で、広大な屋敷の地下には各種拷問道具をコレクションしているらしいわ。夜な夜なそれを磨いて、悦にいってるとか」
「らしいわね。屋敷には愛人を四人も住まわせているって聞いたわ」
「そんな方なの? それじゃ、マリー様の立場はどうなるの?」
「元帥の南の島行きが逃れられたら、離縁か別居でしょ」
「また『ポイ捨て』されちゃうってこと!?」
きゃーー、と侍女達が無責任に盛り上がる。
聞くに耐えなかった。
私は両耳を手で固く押さえると柱から離れ、小走りで自室に向かった。
部屋に入ると、ベッドに飛び込む。
枕に顔を押し付けると、自分があまりに惨めで涙が溢れて止まらなかった。
「どうして? 私が何をしたって言うの? こんなの、あんまりだわ」
そうして泣いているとガチャリと扉が開き、誰かが部屋に入ってきた。
慌てて顔をあげると、ゆっくりと歩いてくるのはエミリアだった。
「お姉さま…」
「部屋に入ってこないで、エミリア。私を一人にして」
少しの間の後、妹は口を開いた。聞いたこともないほど、低く冷たい声で。
「冴えない性格に平凡顔で、みっともないお姉様。哀れなご令嬢。あんたは本当に見ていて鬱陶しいわ」
別人のような口の悪さに、驚いて上半身を起こしてメガネをかけ直す。