公爵との衝撃の出会い
そして「聖ディシスの週」の最後の大夜会の夜。
私は一番お気に入りの薄紅色のドレスを着て、王宮の大広間に立った。
叔母は「飾りっけが足りない」と言って私のドレスに隙あらばリボンのコサージュをつけようとするので、逃げるように飲み物が並んでいるテーブルに向かった。
叔母と自分の分の紅茶のカップを両手に持ち、テーブルから離れようと後ろを振り返ったその瞬間。
後ろを歩いてきていた男性に、私は振り向き様にカップをぶつけてしまった。
カップを手から落としそうになるが、取っ手を必死に握ってなんとか落下を免れる。
だが視線を男性に移した瞬間、とんでもない失態に血の気が引く。
(なんてこと……!!)
私の脳内は、一瞬にして真っ白になった。
ぶつかった拍子に私は二客分の激アツの紅茶を、男性に浴びせてしまったのだ。主に彼の下半身に。
「あ、あなたは……!」
被害者の顔を確認し、凍りつく。
目の前で仁王立ちになっているのは、このエーデルリヒト王国の者ならば、誰もが知る有名な軍人だったのだ。
男は美丈夫なことでも名を馳せていたが、彼の名を大陸中に広めたのは、軍人としての武功だ。
ひとたび戦に出れば、各地の砦や城を陥落させ敵を完膚なきまでに叩きのめしたという。
烈火の勢いで侵略していき、このエーデルリヒトの領土を瞬く間に広げた男。若くして負け知らずの元帥。
ついたあだ名は、「無敗の公爵」。
その名も、ラインハルト・ヴァレリー・メルク公爵だった。功績と名誉を兼ね備えた、金ピカの軍人である。
元帥は非常に目立つ男だった。
瞳は磨いた剣のような銀色で、プラチナブロンドの髪は冷たく輝き、緩くウェーブがかかったその髪は後ろで一つに束ねられている。
彼を見たのはこれが初めてではない。
初めて私が元帥を目撃したのは、王都の目抜き通りにある、人気の紅茶館だった。
その後も元帥を紅茶館でたびたび見かけた。侵略好きの元帥のもう一つの趣味が、紅茶を飲むことだなんて意外だった。
私の至福のティータイム空間を、何度も一瞬にして恐怖空間に変えてくれた男だ。
紅茶好きの元帥も、激アツの紅茶をぶっかけられるのは好きなはずがない。
(ああ、私はなんて酷いことを、なんて大変な人に……!)
周囲の人々は楽しげにダンスに興じていて、誰も私たちの惨事に気がついていない。
そして元帥は熱い茶を浴びたのに、姿勢良く立ったまま微動だにしない。普通なら背を折って叫んでもおかしくはない状況なのに。
「申し訳ありませんっ! いぃいま、お拭きします……!」
カップをテーブルに戻すと、震える手でナプキンを素早く鷲掴みにし、けれど私はそこで固まった。
(――で、でもコレ……、どうやって拭いたらいいの!?)
紅茶をかけた場所が、悪過ぎた。
(い、位置的に……、とてもだけど私には拭けない!!)
元帥の股間を穴が空くほど凝視してしまう。
なんというか、濡れた部分が絶妙すぎて、まるでお漏らしをしちゃったみたいになってしまっている。
(ああ、よりによって、なんてところに……!)
拭かないわけには、いかない……けれど、拭くに拭けない。
私はナプキンを手に、仕方なく元帥の膝辺りから拭こうと屈んだ。
だが私が膝を折った直後、元帥が素早く動いた。彼は私の右手を掴むと、引き上げて私を真っ直ぐに立たせたのだ。
突然のことに「ウヒャァッ!」と妙な悲鳴を上げてしまった。急に触られたことと、手首を掴む元帥の力があまりに強かったので。
戦慄の恐怖に口から心臓どころか胃まで飛び出てしまいそうだ。
「あぁあぁあの、今、お拭きしようとっ!」
盛大に裏返る声で状況を説明する私の手首を掴んだまま、元帥は地を這うような、恐ろしく低い声で言った。
「……ご令嬢にこんなところを拭かせる趣味はありません」
「しゅ、しゅみましぇん…」
恐怖で歯の根が合わない。
元帥がその薄い唇を再び開く。
「私が急に後ろに立ったことで、そんなに驚かせてしまいましたか?」
「い、いえ、完全に私の不注意で……」
私を至近距離から見下ろす元帥の目は、光を反射するような金属質の銀色で、ひたと当てられると全身が固まるばかりか、思考までも停止しそうだ。
とにかく、ひたすらこの場は謝罪に徹しなければ。元帥の怒りを鎮められなければ、元帥の砲弾の焦点が、子爵邸に合わせられてしまう。そうなればディラミン家は屋敷丸ごと、エーデルリヒトの地図から消されるかもしれない。
何せ元帥は無慈悲だとの噂があった。
二年前の戦では、長年連れ添った腹心の部下が怪我を負うと、「行軍の足手纏いだ」と斬り捨てたという逸話がまことしやかに広まった。嘘か誠か、真偽は全くもって不明だけれども。
元帥のあだ名はそれまで「無敗の公爵」だったが、それ以後新たな修飾が加わり、今や「冷酷無慈悲の無敗の公爵」と呼ばれていた。
情けなくも震え上がりながら、思いつく限りの謝罪の言葉を並べる。
「本当に申し訳ありません。ごめんなさい。かたじけない。心からお詫び申し上げます。――あ、あの、すぐに宮廷医師を呼んで参りま…」
「必要ありません」
元帥はきっぱりと言い切った。
でも何もしないわけには、いかない。
私の手首はまだ元帥にかたく掴まれたままで、怖すぎて歯がカチカチと鳴るが、どうにか言葉を紡ぎ出す。
「で、では火傷の治療費を払わせてくださ…」
「それも不要です」
元帥はそう言うと、ようやく私から手を離した。そのまま流れるような動きで長いマントを後ろから回し、自分の赤いジャケットの肩に掛け、身体に一周させた。
「このままでは色々と支障がありますので、着替えてきますーーそれでは失礼」
元帥はサッと踵を返して、私から離れた。カツッ、カツッと靴音を立てて少し歩いたところで、彼は不意に立ち止まり、小さく呟いた。まるで己の脳裏に刻むように。
「近いうちに、貴女の屋敷に伺いますから」
ごくりと生唾を嚥下してしまう。ーー貴女の屋敷?
(私が誰か、元帥も知っているということ?)
確かに今まで何度か、王都の紅茶館で元帥と出くわしたことがあったけれど、会話どころか挨拶もしていないのに。
私はいつも紅茶館では一番落ち着ける隅っこに座っていたので、彼が案内される通り沿いの良い席からは遠い位置に座っていた。だから彼は私に気がついていないと確信していたのだが。
というより、そもそも居合わせた他の客達も皆、なんとなく元帥を避けていた。彼の周囲は彼を中心に爆発でもあったのかと思うほど、人が誰も座っていなかった。多分、皆彼が怖かったのだ。
元帥はいつも爆心地にいた。
「あの、元帥…」
呼びかけても元帥は振り返らず、再び歩き出すと大広間の出口に向かった。
大柄な元帥が大股で堂々と歩いて行くと、人々の波は元帥が通る道すがら、まるで海が割れるが如く、見事に割れていく。
そうして無言で元帥が大広間から姿を消すと、私はナプキン片手に困惑した。
元帥は大変厄介な部分を濡らしたまま、どこかに行ってしまったのだ。
私が王宮で元帥に紅茶をお見舞いしてしまった、三日後。
しとしとと秋の冷たい雨が降る、夕方のことだった。
父が意気揚々とどこからか帰宅をした。
父は居間に私を呼ぶなり、革張りのソファにどっかりと腰を下ろし、満面の笑顔で報告をしてきた。
「マリー、朗報だ! お前の結婚相手が決まりそうだぞ!」
「えっ、こんなに急に?」
「先方もかなり急いでいたんだ。だがお相手は超がつくほどの名門貴族だぞ!」
世間でポイ捨て令嬢と噂の私と、可及的速やかに結婚したがる男性に、ろくな予感がしない。
手のひらに冷や汗をかきながら、核心を突く。
「それで、その奇特なお相手は、どなたなの?」
父ははちきれんばかりの笑顔を浮かべ、口を開いた。
「ラインハルト・ヴァレリー・メルク公爵だ!」
目眩がした。
何が起きているのか。