反撃のマリー④
外にいたはずの元帥が居間に姿を現すと、その場にいた全員が息を呑んだ。この時点でさらに数人の侍女たちが卒倒した。
元帥は倒れた侍女をチラリとだけ一瞥すると、全く動じぬ足取りで未だに窓際に座り込んだ状態の父の前までやってきた。元帥が入ってきた開け放たれたままの扉の向こうに、廊下をバタバタと駆け抜けていく制服の集団が見える。
父は廊下を我が物顔で走っていく侵入者達を、震える手で指差しながら、尋ねた。
「あ、あ、あれはっ……?」
元帥は場違いなほど爽やかな笑みを披露した。
「ご心配には及びません。彼らは私が呼びました」
父にとって、それは全く回答になっていなかった。心配するなと言うには、到底無理がある状況だ。流石に説明が足りていないと思い直したのか、元帥は言い足した。
「彼らは、水晶騎士団です。この屋敷の呪術者を捕らえるため、家宅捜査をするそうです」
「こ、公爵殿は一体、なぜここに」
「私ですか? 私は結婚同意書を交換しにここへ」
「へっ?」
父は間抜けな声をあげると、展開が読めずに目を何度も瞬いた。元帥は唐突に胸元のポケットから折り畳まれた紙を取り出すと、それを広げてテーブルの上に載せた。父の目が机上の書類と元帥の銀色の双眸の間を、往復する。
「マリーも戻ったようですし。どうぞ子爵殿、同意書にサインを」
元帥は優雅な所作で父の腕を取り、ゆっくりと父を立ち上がらせた。品の良い端整な微笑を浮かべて、書類の前まで父を誘導する。一見支えてあげているように見えるが、おそらく元帥は父が抵抗できない程度に力を込めてテーブルまでの距離を歩かせていた。
父の頬を転がり落ちた汗が、音もなくシャツの上に落ちて吸い込まれていく。
「さあ、ペンはここにあります」
元帥は胸ポケットからガラスのペンと携帯用のインクを澱みない仕草で取り出し、父の前に置いた。随分と準備の良いことで、当初からこうして強引に父のサインを取り付ける計画だったのだろう。
父がペンを握ったまま硬直していると、元帥はまるで「お茶をもう一杯どうか?」とでも聞くような和やかさで、口を開いた。
「砲弾があと十発ほど、足りませんでしたか?」
あまりの質問に目を剥く父に執事が駆け寄り、声をかける。
「旦那様、迷っている場合ではございません。どうかサインを!」
父は固まっていた顔の筋肉をいくらか和らげると、数回大きく呼吸をしてから弱り切った表情で私を見た。
「マリー。お前は、この結婚に納得してくれているのか?」
それは意外な質問だった。
ここで今更父に元帥との結婚の意思を問われるとは、予想していなかった。
「お父様?」
「もし、お前の中に結婚に対して少しでも躊躇する気持ちがあるなら、私はサインしない。エミリアの結婚はもう破談だろうし、無理に先に結婚して家を出ていく必要は無くなったのだから」
そう言いながら、ガラスのペンを握る父の指はよほど力が入っているのか、指先が白くなっていた。父はそうすることで後悔に耐えているように見えた。
エミリアの部屋に忍び込む前に、興奮しささくれ立っていた私の気持ちが、嘘のように凪いでいく。白い飛沫をあげて荒れていた海が、どこまでも透き通る穏やかな水面に戻っていくように。
「マリー。お前は本当に聞き分けの良い子だったんだ……。お前の気持ちも考えず、今までエミリアばかり優先していた私が悪かった」
「お父様……」
私のために父が元帥に対して見せたささやかな抵抗に思いがけず感激していると、元帥が咳払いをした。
私と父の会話の成り行きに眉を顰め、剣呑な眼差しを向けている。もしかして私が結婚を嫌だと急に言い出すことを、心配しているのかもしれない。
(元帥ったら。ちょっと可愛い……)
おかしくなって心の中で小さな笑いながら、私は元帥の近くまで歩くと、その腕にそっと触れる。
「お父様。私、自分から望んでメルク公爵に嫁ぎたいの」
「そうかーー」
父はゆっくりと瞬きをすると、噛み締めるように一度大きく頷いた。そうしてペンを握り直し、書面に滑らせサインを始めた。
父がサインを終え、感慨深げに無言で結婚同意書を見下ろしていると、開いた窓の外からガラガラと車輪が立てる音が聞こえてきた。
子爵邸の門から、一台の馬車がやってくるのが眼下に見える。
「あの白い馬車は、エミリアの馬車だわ。――今日の公演は短かったみたいです」
「大砲を見て腰を抜かさないといいが」
ちっとも心配していなさそうな口調で、元帥も窓に近寄る。
もっとも元帥の心配をよそに、エミリアは屋敷の前に並べられた大砲には全く気がついていない様子だった。どうやらマクシムを連れてきたようで、彼女は一緒に手を繋いで馬車から降り立った。
二人は見つめ合っておしゃべりに花を咲かせているせいで、すぐ目の前の屋敷の惨状が視界に入っていなかった。完全に二人だけの世界に入り込んでいて、周りの状況が目に入っていないのだろう。
マクシムがエミリアの頬にキスをし、エミリアが花咲くように微笑み、何事か彼に照れた様子で話しかけている。私は窓からその様子を、かなり白けた気持ちで見下ろしていた。
あの二人をこんなふうに冷静に見られる時が来るとは、思ってもいなかった。あのマクシムの隣にいるのが自分ではないことが、今ではとても嬉しい。
やがてようやくマクシムがはたと足を止めた。
遅まきながら異常事態に気がついたのか、マクシムは極限まで目を見開き、屋敷の最上階の辺りを見上げていた。ここからはわからないのだが、おそらく外壁に何個も穴が空いているのだろう。
マクシムの目ばかりでなく、ついには口がだらりと開かれ、彼は数歩後ずさった。
釣られるように顔を上げたエミリアの目も、大きくまん丸に開かれる。これなら蜂だけでなく、蛾も入ってしまえそうだ。
二人を出迎えるため、私たちは窓から離れて廊下に出て、玄関を目指した。アルフォンソを先頭に、私と元帥、少し遅れて父が外に出ると、エミリアとマクシムは大砲の撤退作業中の兵士たちに血相を変えて詰問をしているところだった。
「どういうことなの!? お前達はなぜ子爵邸に大砲など向けているの!?」
「ここをどこだと思っている! エミリア・ディラミンは私の婚約者だぞっ!」
唾を飛ばす勢いで怒るマクシムに対し、兵士はしれっと答えた。
「元帥のご命令でしたので」
「元帥? まさかメルク公爵のこと?」
「――ええ。私が撃たせましたが。それが何か?」
突如として会話に乱入してきた元帥を、エミリアとマクシムが短く叫びながら振り返る。
だがその驚いた顔は元帥の隣にいる私を捉えるなり、更に驚愕に引き攣る。
「お姉様っ!?」
「えっ? ま、マリー?」
私は彼らと目が合っても、口を開かなかった。説明してやるのも癪だからだ。
二人の前に進み出たのは、アルフォンソだった。彼はスラリと剣を抜くと、エミリアに剣先を向けた。弾かれたように、マクシムが「何事だ!」と怒鳴る。
アルフォンソは大きな声で言った。
「異端審問官の名に於いて、お前を捕らえに来た」
途端にエミリアの顔が雪のように白くなり、ぶるぶると首を左右に振る。私がアルフォンソといることから、何が起きたのかを悟ったのだろう。
マクシムは自分が一応国王の息子であることを唐突に思い出しでもしたのか、ここで妙に王子らしさを醸し出し、私とアルフォンソの前で無駄に鼻息荒く捲し立てた。
「いい加減にしないか! 何が起きているのか、順を追って説明するんだ!!」
かつて自信溢れる王子様に見えたマクシムは、今はただの中身のない居丈高なだけの男に見える。
私には、彼に対して払う敬意がもう、ない。ふんぞり返るマクシムは、ただ見苦しい。
ぞんざいに手を振り、マクシムに言い放つ。
「殿下、まだ何もお分かりになりませんか?」
「なっ…」
元帥が間を置かず続ける。
「話の筋が見えてないのは、間抜けでアホな殿下だけなのですよ」
「まっ、アッ?」
あまりの言われように、マクシムが声を震わせ更に間抜けな姿をさらしている。いつもの自信と尊厳は、見る影もない。
元帥はそこに追い討ちをかけた。
「貴方はいつも表面しか見ないから、真相を捉え損ねるのです。とりあえず殿下のエミリアは、逮捕されますので」
「うそよ、うそ。だって、わたくしは未来の王妃よ!」
反論したエミリアを、元帥が片眉を上げて鼻で笑う。
「王妃? マクシム殿下は第七王子であり、上に六人も兄王子がいるのに? もしや、六人の王子もインコにする予定でしたか? それは大きな鳥籠が必要そうですね」
マクシムは不可解そうに目を白黒させていたが、エミリアはインコという単語が出た瞬間から、目に見えてうろたえはじめた。
父が蒼白な顔でエミリアに歩み寄り、酷く感情のない調子で話しかけた。
「お前、本当に……自分の実の母親を、――インコに?」
「し、知らないわ。お父様ったら何を言ってるの。な、何の話?」
「お前が埋葬したインコは、……人骨に変わっていたんだよ」
父が苦しげな声でそう教えると、エミリアの表情が怯えたように固まった。
「それがなぜなのか、説明しなさい」
絶句するエミリアに今度は私が語りかける。
「エミリア、私たちもう全て知ってるのよ。あなたが人殺しだということも」
「殺してなんていないわ!! わたくしはちょっと、鳥に変えただけよ」
「そんな屁理屈が通ると思うの? あれは殺すよりも、もっと残酷な方法だったとは思わないの?」
「鳥籠が落ちたのは事故よ! わたくしのせいじゃない!」
父は次々と暴露される衝撃の事実に立っていられなくなったのか、膝から崩れるようにその場に座り込んだ。目は生気を失い、顔からはあらゆる感情が消失していた。
遅れて子爵邸にやってきたのは、大きな馬車と馬に乗った二十人ほどの騎士達だった。彼らは前庭に止まると、馬を降りて私たちの前まで駆けつけ、エミリアを拘束した。
喚くエミリアとは対照的に、辺りは静まり返っていた。馬車から降りてきたのは、第一王女のエメラインだった。





