反撃のマリー①
水晶騎士団の調査が終わるまで、「マリー」が見つかったことは秘匿にされた。獣医とサイモンが見てしまった厄介な場面に関しては、きつい口止めが言い渡されたのは、言うまでもない。
屋敷に突然現れた私を元帥は名を隠して、屋敷の皆に事情があって私を匿うことを説明してくれた。
客用の寝室もそのまま使わせてもらえていた。
時折タニアがチーズ片手に、敷地内を歩いてシフォンを探しているのを見た。突然姿を消した猫と、代わりに現れた私に、城代や兵士たちは明らかに困惑していた。
ただし、元帥は国王からの打診を保留したため、私と何か関係があるのだろうと気がついた彼らは、それ以上私については追及してこなかった。
ただアルフォンソだけは、かなり気まずそうに私に視線を投げていた。彼だけは第一王女から、私の正体を聞かされていた。
「ええと……マリーさん。今日も捜査にご協力願うよ」
アルフォンソは朝食が済むと、苦笑しながら私に話しかけた。
私はアルフォンソと一緒に王立教会へ行き、水晶騎士団の前でたくさんの証言をした。
子爵邸には物的証拠が出揃うまで踏み込まない、と妹を泳がせる作戦が取られ、私は結果的に叔母にも無事を伝えることができないでいた。
そして呪術が解けてから五日後。
私は息を潜めて子爵邸の様子を生垣の外から窺っていた。
二頭引きの小さな目立たない馬車で乗り付け、葉が密集する生垣をかき分けて、自分の家の玄関周りを観察する。
子爵邸は私が生まれて育った屋敷のはずなのに、目の前に聳えるその屋敷は不思議なほどよそよそしく感じた。
ずっと住んでいた私の家のはずなのに、急に長年離れていたよその家のように見える。
今日はいよいよ家に戻る――のではなく、忍び込むのだ。
(もしかしたら、八百年間も水晶騎士団が探していたものを、見つけられるかもしれない)
王女の話を聞いてから、気になっていた光景を思い出したのだ。
エミリアが私を猫にした時、彼女は若い女性には不釣り合いな分厚い指輪をしていた。
何か呪術と関係があるものだったに違いない。
あれは、伝説の古の王の印章だったのではないだろうか。ただの指輪に見えたものの、石がなければ印章にも見える。
指輪を探し出して、印章かどうかの確信を得たら、少し離れて待機させている水晶騎士団達を中に呼ぶのだ。そうすれば誰かに隠される前に、呪術と妹の物的証拠を押さえられる。
私は玄関周辺をじっくりと見ていた。
「やっぱり。馬車の準備がされてるわ。ーーエミリアは毎週土曜日に王立バレエの公演を見に行くんです」
生垣に突っ込んでいた顔をひき、隣に立つアルフォンソにそう言うと、彼は呆れたように眉を顰めた。
「姉が行方不明だというのに、バレエなんか見に行くのか? 大した妹だな」
「だってエミリアですから。きっといなくなってから一週間くらいは心配してるお芝居をしていたと思うけど…」
私は履いている革のブーツの紐をぎゅっと固く結び、気合を入れた。
馬車から元帥も降りてきて、私のそばまでやってくる。彼は銀色の瞳を心許なさそうに揺らしながら、私を見下ろした。
「本当に忍び込むのか? やはり捜査は水晶騎士団に任せて、私の手元にいるほうが安全だと思うんだが」
思わず苦笑してしまう。
元帥にとって私は、マリーというより未だにシフォンに対する感覚が強いのかもしれない。
「アルフォンソさんも一緒なので、大丈夫です」
「余計心配だ」
「兄上、正直すぎるぞ」
アルフォンソの苦言を流し、元帥は私の肩にそっと手を置いた。そうして気遣かわしげに、優しい声で言う。
「マリーの姿に戻ったのだから、正々堂々と帰宅すればいいものを」
「いいえ。それだと最大の証拠の印章を押さえることができません。勝手知ったる我が家ですから、ご安心を」
元帥は美貌を苦しげに歪ませて首を左右に振った。
「一時的であっても、君を一人にするのは不安で仕方がない。何しろ、私たちが相手にしているのは、邪悪な皇帝の子孫であり、凶悪な呪力を隠し持つ者なのだから」
「だから、一人じゃないだろ」
元帥にこんなに心配してもらえることが、こそばゆいながらも、嬉しい。
これ以上元帥を不安にさせないように、努めて穏やかな口調で彼に言う。
「本当に、大丈夫です。作業を終わらせたら、すぐに戻ります」
元帥は溜め息をつきながら、私の肩から手を下ろした。
続いて口を開いた彼の声音は、随分硬いものだった。
「譲歩できるのは、一時間だ。万が一それまでにここに戻って来なかったら、私も行動に出る」
「分かりました。速やかにコトを運ぶように頑張りますから、お任せを!」
数分後、エミリアを乗せた白い馬車が屋敷の敷地を出て行った。
屋敷の外にいた侍女たちが中に戻ったのを確認すると、私はヴェール付きの帽子を深く被り、生垣にガサガサと入り込んでいった。屋敷の側面にあるこの植え込みが、少し枯れかけて隙間ができているのだ。
自分の体を押し込み、細い枝と小さな葉が密集する中を強引に進む。あと少しで生垣を抜けられそうという段階で、片足が宙に浮いた状態で膝あたりに茂る枝に引っかかってしまった。
上げたままの足を一旦戻そうとするも、ブーツの紐が枝に絡まり、動かない。足元の状況を確認したいのだが、茂る枝葉に視界を遮られ、見えない。
(どうしよう。あとちょっとで通り抜けられるのに)
完全に引っかかってしまった。
焦りから急に心拍数が上がり、嫌な汗が全身に噴き出る。
私はすぐ後ろで見ているはずのアルフォンソに、声をかけた。
「アルフォンソさん、動けなくなっちゃったので、後ろから私のお尻を蹴ってくれませんか?」
「はぁ!? そ、そんなことできるわけないだろ!」
「だ、だってそういうの得意なんじゃないんですか?」
「お、俺をどんな男だと思ってるんだ! 女性のお尻を蹴飛ばせるはずがないだろ」
(やだ、こんな時だけ紳士ぶらないでほしいわ……)
「お分かりでしょう、私はシフォンだったんです。私、あなたの言動は屋敷で色々見たし、聞いたんですよ」
「だったら尚更じゃないか? 俺は全ての女性に優しいんだ」
「優しい人は、カゴに女性を閉じ込めたり、川に流したりしません!」
「流したりはしてないぞ。それに結果的にあれは大英断だったじゃないか」
「うッ……。ま、まぁそうと言えなくもないですけど」
そこに割り込んできたのは、元帥だった。彼は声になぜか少し怒りを滲ませていた。
「私になぜ頼まない? アルフォンソの方が頼りやすいのか?」
それって怒るところだろうか。
「俺だって蹴りたいなんて言ってないぞ!」
「ああもう、どっちでもいいから、できる方がお願いします!」
たまらず少し大きな声を出すと、元帥が咳払いをした。
「アルフォンソには、させられない。だが、本当にいいのか? マリー」
「もちろんです」
私のお尻に元帥の硬い靴裏が当てられたのを感じる。そっとそれが離れたと思うと、次の瞬間、靴が今度は力強くぶつかってきてグッと押される。引っかかっている枝に体が押し付けられるが、全然勢いが足りない。
冷酷無慈悲な無敗の元帥としたことが、かなり躊躇しているらしい。でもここで控えめにしか蹴ってもらえないと、困るのは私なのだ。
「遠慮は入りませんよ、元帥。吹っ飛ぶくらい思いっきり蹴飛ばしてほしいんです」
「いいのか?ーー私を嫌いにならないでくれよ?」
「痛っ!!」
なかなかの強い衝撃がお尻を襲い、目の前に星が散ったかと思った次の瞬間、私は生垣からようやく脱出できた。絡みつく枝から抜け、芝生の上に両手を突いて前のめりに倒れた。青臭い芝の匂いが鼻腔を掠め、両手に汁がつく。
起き上がって振り返ると、後に続いてアルフォンソが生垣を揺らして侵入してきた。目が合うなり、彼は得意げに肩をすくめた。
「ま、足の長さの差かな。俺が先に行くべきだったかな」
口の減らない男だ。
私たちが入り込んだのは、子爵邸の側面に当たる場所だ。屋敷の中から人に見つからないよう、急いで屋敷に向かって走り、窓のない箇所を選んで壁に張り付く。
首を上げて子爵邸を見上げると、見慣れていたはずの建物が妙に黒くくすんで見えた。
ヴェールのせいかと思い、一瞬引き上げて視界を開いて確認するが、やはり黒く見える。
汚れとも違うし、外壁を塗装し直したわけではないだろう。
「気のせいかしら。なんだか、屋敷の壁の色が全体的に暗いわ」
するとアルフォンソは耳打ちしてきた。
「呪術の影響だろう。呪いは術者の心を蝕むんだ」
「屋敷全体が呪術に蝕まれている、ということ?」
「かもな」
丁度時間は我が家の午後の軽食の時間だった。
父は食堂にいるだろうし、エミリアの侍女は彼女と一緒に出かけたはずだ。
下女たちも今は下働きの者達専用の食堂で、皆で茶菓子を食べて休憩をしているだろう。
屋敷の裏にある扉のノブに手をかけてみたものの、施錠がされていた。危機管理が行き届いており、安心すべき所なのだが、今は残念だ。
けれども私はいつも日中は開きっぱなしになっている窓の存在を知っていた。
屋敷の北の角に位置するその小部屋は窓が一箇所しかなく、湿気が溜まるのでいつも開けられていたのだ。
しゃがんだ状態で壁伝いに移動し、窓の真下にこっそりと近づく。
案の定、お目当ての窓は開いていた。アルフォンソの手を借りて桟によじ登り、足音を立てないように慎重に建物の中へとおりたつ。
まずは第一関門突破だ。
キャビネットが数個並んでいるだけの小さな部屋を進み、ドアのノブに手をかける。慎重を期して廊下に人がいないか探るため、ドアに耳を押し付け、物音がしないか聞き耳を立てる。
本当は自分の家だし、屋敷の者たちは私のことを今必死に探しているのだ。泥棒のような入り方をする必要はないのだが、そもそも今から私とアルフォンソはまさに泥棒みたいなことをする予定なので、仕方がない。
アルフォンソの着ている王立騎士団の制服の袖をしっかり掴み、廊下に飛び出ると抜き足差し足で進んでいく。
ディラミン邸に階段はたくさんあるが、人通りが少ない階段は熟知している。
廊下の端にある狭くて暗い階段にたどりつくと、そこから三階を目指した。足音を立てぬよう、一段一段に足をかけるたび、膝を柔らかく動かして振動を抑える。
そうして再び廊下に出ると、顔だけ出して広い廊下を覗く。
両側にドアが並ぶ廊下には、今は誰もいない。早いときはそろそろ下女たちが廊下にモップをかけ始める時間なのだが、間に合ったようだ。
ドアをいくつも通り過ぎ、一枚の大きな白塗りのドアの前で私は立ち止まった。
枠にもブドウとツルの彫刻がされた、立派なドアの向こうにあるのは、妹のエミリアの部屋だ。
ドアのノブに手をかける前に、汗で濡れる掌をスカートの生地に擦り付けて拭き、アルフォンソに鋭い視線を送る。
「いよいよ、ガサ入れですよ!!」
「――ひょっとしてアンタ、楽しんでるか……?」
ドアを大きく開けると、アルフォンソを引いて素早く中に身を滑り込ませ、後ろ手で閉めた。