人に戻ってあなたと③
元帥の上から慌てて体を離し、胸を両手で隠す。胸だけでなく、もっと隠したいけれど、これ以上どうしようもない。
背を向けると脱兎の勢いで全裸のまま駆け出し、部屋を出ようとしたところで、こちらへ駆けてきたサイモンと正面衝突する。
サイモンは目玉が飛び出しそうなくらい瞠目して、ぎゃあああと叫んだ。
隣に立つ獣医は私と目が合うなり、顔を真っ赤にしてくるりと回転して背を向けた。
たまらず室内に引き返し、無我夢中で窓に駆け寄り、開いていた分厚いカーテンの裏に入り込んで首から下を隠す。
「お、お館様、し、シフォン様はーー。というか、この裸体の女性は、一体?」
獣医が黒い革張りのカバン片手に、おずおずと部屋の中に足を踏み入れる。サイモンは片腕で両目を覆いながら、獣医の腰にしがみついて一緒に歩いていた。
「シフォンは、ーー心配ない。だからすまないが、戻ってくれ。急に呼びつけて悪かった」
獣医は数回瞬きをした後、チラリと私を見た。
その後、ものすごくぎこちない仕草で、何度も元帥と私の間に視線を往復させた。
あまりの恥ずかしさに、思わず目の下までカーテンに隠してしまう。これはなんという恥辱だろう。全裸で走っているところを、見られてしまうなんて。
私と元帥について考えるのはやめたのか、獣医は部屋の中を素早く見渡した。一応シフォンがいないかを、確認したかったのだろう。
とりあえずシフォンがいないのだとわかると、彼は実にぎくしゃくした動作で頭を下げた。
「それでは、失礼いたします。また何かありましたら、なんなりと」
すると元帥はサッと片手をあげて、人差し指を立てた。
「待て。サイモン、女性が着る物を大至急、持ってきてくれ」
「はい!」
サイモンは獣医と一緒にそのまま出て行った。
扉がそっと閉められると、元帥は私を振り向いた。心臓が縮み上がる。
「私は今、素面のはずだ。ーー今度は、見間違えてなどいないぞ」
ああ、そうか。
ここでようやく私は事態を察した。
昨夜以降の元帥の理解不能な行動の意味が、分かった。
昨夜水晶を口に入れていたとき。あの時私はきっと一時的に元帥の前でマリーの姿に戻っていたのだ。そして彼に担がれて運ばれている間に、再び猫の姿に戻ったのだろう。
カーテンをきつく握りしめ、首から上を出して元帥に語りかける。このために水晶を飲んだのだと、自分に言い聞かせながら。
「私は、子爵家のマリー……です。妹に呪術をかけられて、猫の姿に変えられてしまったんです」
「まさかそんな――、あり得ない。いや、間違いなく君はさっきまでシフォンだったが…」
常識を超えた事態に、元帥が両手で自分の頭を抱える。
「こんなことが、一体なぜ? ――君の妹が呪術を?」
「義母の先祖は古の皇帝だとか。昨日エメライン様に、術を解く水晶をいただきました。元帥、全部あなたのおかげです」
人が猫になったり、その逆があるということなど、にわかには信じ難いのか元帥はしばらくの間言葉なく私を凝視していた。どうにか事態を頭の中で消化したのか、やがてゆっくりと瞬きをしながら、元帥は言った。
「ーーつまり私が探していたマリーは、ずっとここにいたということ……なのか? シフォンとして」
「はい、そうなんです。探し回らせて、ごめんなさい」
元帥は青ざめたかと思うと、急に頬を赤くさせ、気まずそうに片手を腰にやったり、忙しなく瞬きをした。
もしかして、この屋敷でシフォンを猫可愛がりした行為の数々を、思い出しているのかもしれない。
思い返すと私まで赤面してしまう。
元帥は少し恨みがましい声で言った。
「なぜ教えてくれなかったんだ」
「だって、伝えようがなかったんです。言葉もエメライン様以外は通じなかったし…」
「そうだな。その通りだ」
元帥は首を振ると、再び頭を抱えた。
「参ったな。こんなことになっているとは、想像もしなかったから……私は、シフォンにーー君に少々度がすぎるスキンシップをしてしまった」
「き、気になさらないでください。猫だったと割り切っていますし。ーーちっとも嫌じゃなかったので」
勇気を出して本当の気持ちを打ち明けると、元帥は耳まで赤くなってしまった。
やがて元帥は顔を上げて、私の顔やカーテンからはみ出る肩まで視線を滑らせると、言いにくそうに言った。
「随分、――痩せたな……」
言われてからはっとして、左手で自分のお腹や腰回りに手を這わせる。
(ない……! あの段差やボヨボヨのお肉が、綺麗さっぱり落ちてる!!)
カーテンで隠しつつも、驚愕の思いで体を見下ろす。
「ここのところ、ロクなものを食べていなかったからでしょうか!」
猫の餌を思い出し、そう答えてから慌てて顔を上げる。
屋敷の主である元帥に失礼なことを言ってしまった。
「あっ、そういう意味じゃないんです! 元帥はシフォンに良くして下さいました! 人の食べ物に比べれば、の話で!!」
いそいで取り繕う私を、元帥は愉快そうに笑った。
その時、部屋の扉が外からノックされた。
サイモンが戻ってきたのだろう。元帥が扉に手をかける前に、私は言おうと思っていたことを、待ちきれずに言った。
「王宮に行かないでください。ゴロー島になんて、行って欲しくないんです。ーー私も、元帥のティーカップが見てみたいんです」
元帥は扉の前で足をとめ、ゆっくりと振り返った。
「それを理由に内示を辞退することができれば、いいのだが」
少し投げやりな調子でそう言うと、元帥は扉のノブに手を伸ばした。
首元のカーテン生地を一層強く、握る。なんとか引き止めなければ。ここで言わなければ、一生後悔するだろう。
あの求婚は、まだ有効だろうか。
「元帥、私と結婚してくださいっ!!」
扉のノブを回しかけていた元帥の手の動きが、ぴたりと止まる。
彼は微かに首を傾けた。
「今、なんて」
「ええと、エメライン様と力を合わせて、古の皇帝の遺した闇をどうか暴いて下さい。そのためには、陛下も辞退をお許しくださるはずです。それに、加えて結婚を控えているという事実があれば、……」
元帥は遠慮がちに私の方に歩いてきた。
「マリー。君は私を怖がっていたんじゃないか? 紅茶館では時折、すごい形相で私を遠くから見つめていた」
そんなことはないーーとは到底言えない。正直、確かに爆心地だと思って避けていた。
まさかそれを元帥本人に、気づかれていたなんて。
元帥は窓の近くまで来てから立ち止まると、悲しげに長い溜め息をついた。
「シフォンの恩返しのつもりなら、そんなことをする必要はない」
「違います! これはシフォンとマリー両方の気持ちなんです」
私は元帥までの数歩の距離を、カーテンごと歩いて縮め、両腕を広げてカーテンを巻き込んだまま彼に抱きついた。
「でも私が実際に接した元帥は、ちっとも怖い人なんかじゃありませんでした。ここに私といて欲しいから、言っているんです」
腕を伸ばして、必死に元帥の背中に手を回す。
それまでのマリーなら、男性に抱きつくなんて絶対にできなかったけれど、シフォンとして元帥と過ごした日々が、感覚をすっかり麻痺させていた。
元帥は私の震える肩に優しく手を置いた。
「ありがとう。ーーとりあえず、服を着てくれないか?」
自分の状況が恥ずかし過ぎて、返事は出来なかった。





