人に戻ってあなたと②
翌朝、目が覚めると部屋の中を見渡して、驚いた。
私が寝ていたのは立派な客用の寝室だった。
縦縞模様の壁紙には清潔感があり、天蓋付きのベッドは寝具がサーモンピンクで統一されていて、いかにも女性用の寝室だった。
丁度屋敷の角に位置しているのか、奥には大きな窓のついた尖塔があり、円形のその空間は腰掛けて窓の外を見られるようになっていた。そこに座って日差しの中で読書をすれば、とても気持ちが良さそうだ。
部屋の真ん中には、二脚の椅子がついたテーブルセットや物書き台もあった。
昨日まで客間を間借りして、地べたにクッションを敷いて寝ていたのに。
(うーん、なんて素敵な部屋かしら。――元帥はなんだって、私を急にここに?)
猫のくせにこんなに良い部屋を使ってしまった罪悪感を覚えながら、のろのろと食堂に向かう。
食堂に行くと、元帥は既に食べ終えたのか彼の姿はなく、侍女達が食器を片付けているところだった。
寝ていた部屋の豪華さに感激して部屋の中をあちこちうろついていたせいで、かなり時間を使っていたらしい。
「ブニャー(おはよう)」
起きてきたことをアピールしようと、ブサ猫なりに爽やかな朝の挨拶をする。
「あらっ、シフォン様。今日は少し遅かったんですね。――食事にしましょうね!」
侍女は溌剌とした笑顔でキビキビと皿をまとめると、両手に抱えていそいそと出て行った。数分後にやってきたのは調理人で、私の前に朝食のクラッカーとミルクを持ってきてくれた。
調理人は私がぼりぼりとクラッカーを食べ始めると、「うまいかぁ? シホン」と尋ねながら、歯を見せて満面の笑顔で私の隣に膝を突いた。
そこへサイモンが駆け足でやって来る。
「シフォン様、ですよタニアさん! お館様に叱られますよ」
すると調理人のタニアは頭をぼりぼりと掻きながら、サイモンを振り返った。
「おお、そうだった、そうだった。シフォン、様だったな。お館様は日に日にシフォン様を溺愛なさってるなぁ」
「何せ昨夜からお客様用の部屋を使わせてるくらいですから。しかも、一番上等な部屋を!」
あの部屋のことだろうか。本当に申し訳ない。
するとタニアは、私の背中を撫でた。
「シホン様は、幸せ者だなぁ」
「あ、だめですよ! シフォン様のお体に触れていいのは、お館様と僕だけだと、今朝きつくお達しがあったじゃないですか」
なんだろう、そのやたら束縛的なお達しは。
行き過ぎた溺愛というべきなのか、それとも元帥はご乱心なのか。
調理人は首を引っ込めると、苦笑した。
「あ、そうだったか」
調理人は私の肩周りに掛けていた両手を引っ込め、慌てた。バツが悪そうにテヘッと舌を出すと、サイモンと私に言う。
「ちぃーとばかり触っちまったことは、お館様には内緒で頼むよ!」
サイモンは仕方ないですねぇ、と答えたが、私は元帥の態度の変化が、理解できずにもやもやした。
食事を済ませて元帥を探していると、廊下を歩くサイモンと出くわした。腕に何やら濃い紫色の布を抱えている。
きりっと顔をあげ、やや緊張した固い表情で早歩きする様子に、私は鋭く察した。
きっとサイモンは元帥に何か仕事を言いつけられている。
元帥の所に向かっているのだろう、とサイモンの後に続く。
元帥は三階の自室で身支度をしているところだった。
姿見の前に立ち、折りたたんだハンカチをジャケットの胸ポケットに入れている。
着ているのは濃い紫色のジャケットで、見れば彼にサイモンが恭しく差し出しているのは、マントだった。
履いているのはピカピカに磨かれたブーツで、肩には飾り綱がつけられ、腰には立派な剣が下げられている。その剣を支えるベルトも、宝石がはめ込まれた豪華なものだ。
朝からかなり気合の入った身支度をしているらしい。
(これは、軍服?)
嫌な予感がする。
元帥はジャケットにたくさんのバッジを並べて付けていた。肩に付いた棒と星が並んだバッジは、軍隊の階級を表すものだろう。
元帥がサイモンから受け取ったマントを肩にかけると、サイモンが悲しげな声を上げた。
「本当に王宮に行かれるのですか? 南の島の打診は、もう少しお返事を延ばせないのですか?」
正装をする元帥の姿に、ハッとした。彼は今から国王に会いに行くのだ。
このまま元帥を王都に行かせてしまえば、彼は私のもとにはもう、帰ってこないかもしれない。
部屋の入り口から元帥に向かって駆け寄り、前脚を上げて彼の足元に縋る。
後ろ足で伸び上がり、出発を妨害しようと爪を立ててマントを引っ掻く。
元帥は驚いたように目を見開いた。
「シフォン!」
「だめだよ、シフォン」
「ブミャ(行かせないわよ!)」
だがサイモンがマントを守ろうと私を抱き上げ、元帥から離してしまう。
「今日はすぐに戻る」
乱れたマントを軽く振って直すと、元帥は姿見に背を向けて、部屋の出口に向かって歩き出した。
(だめだ、行っちゃう!!)
なんとか止めたかった。
もう思いつく唯一の方法は、人間となって言葉を尽くして彼に伝えることだった。
ーー探しているマリーはあなたに助けられて、感謝しているのだと。それに元帥が噂されるような戦好きの軍人ではないと、私は知っている。そしてあなたが好きだから、私はここに残っていいですか、と。
遠ざかる二人の背中を視界の端に捉えながら、首元に下げた巾着に爪をかける。
床に落ちた巾着に爪と歯を駆使して、半ば布を切り裂くようにして中身を取り出す。
(早く、いますぐ飲み込まなくちゃ!)
ころんと転がり出た水晶に勢いそのまま顔を寄せ、口に入れる。
一瞬その大きさに改めて抵抗感が湧き起こるが、躊躇したのは一瞬だった。
今この場で窒息しようが、呪いを解くしかない。
猫でいることより、マリーに戻ることを私は選んだ。
舌の力で口の奥まで押しやり、喉と舌の付け根に渾身の力を込め、飲もうと頑張る。
喉を圧迫されて頭に血が上り、視界がチカチカ点滅する中、全てを賭けて水晶を嚥下する。
猛烈な喉の痛みと苦しさに、前脚を振り乱して私は床を転げ回った。
舌の上を通りすぎ、口の奥からその先へと落ちたものの、水晶玉で喉が完全に詰まってしまい、息はもう吸うことも吐くことも全くできない。
わずかな空気すら取り込むことができず、地上で溺れるような、猛烈な苦痛が胸を襲う。
このまま死んでしまうのではないか、という恐怖が湧き起こる。
目を閉じて暴れ回る中、元帥の怒鳴り声が聞こえた。
「どうした、シフォン!? サイモン、厩舎の獣医を呼んでこい!」
「はっ、はいっ!!」
バン、と大きな音が響いたのは、サイモンが扉を激しく開けたせいだろう。
続けて小さな足音が、ものすごい速さで遠ざかっていく。
身体が熱い。バラバラになりそうだ。
「シフォン、苦しいのか? 何か飲んだのか?」
元帥は喉を引っ掻く私をよく見ようと、力強く抱き上げた。
薄目を開けると、彼が心配そうに顔を歪めて私を覗き込んでいるのが、見える。
全身が熱くて、関節が軋むように痛む。あまりに苦しくて、爪を引っ込める余裕などなく、元帥の服に爪を立ててよじ登り、彼にしがみついてしまう。
そうして重たい私が暴れていると、突然元帥の体が傾き、彼はバランスを失って後ろに倒れた。
ドサっと重い音が響き、一緒に倒れた私は彼の肩に顔を押し付ける格好になった。
薄目を開けると同時に空気がすうっと喉を通り、肺に流れ込む。
(息が、できる!!)
ゼエゼエと何度も大きく呼吸し、酸素を取り込む。
肺が空気で満たされる。
死への恐怖が、急激に遠ざかっていく。
心から安堵して、起きあがろうと元帥の肩に両手をつく。上体を起こすとさらり、と自分の胸や背中に何かくすぐったいものが落ちるのがわかった。
なんだろうと体を見下ろし、目に飛び込んできたのは、私の赤くて長い髪の毛。
(髪?)
続けて動かす目線の先には、毛のない白い腕と元帥の肩章にしがみついた私の手。そう、毛と肉球のない、滑らかな肌の手。
私は仰向けに転がる元帥のお腹の上に、座り込んでいた。首をぎこちなく傾けてみれば、足は元帥の体の横に流れるマントに絡みついている…。
その足にも当然、素肌を隠すような毛はなくてーー。
そう、人の足だ。手足は長く、私は急に自分がとても大きくなった気がして、展開を理解するのに時間がかかった。
ーーこれは、人間の体だ。
猫から人間に、ついに戻ることができて、そして……。
(わたし、今……素っ裸?)
吸い込まれるように元帥の視線と私の視線が合う。
床に転がり私を見上げるその銀色の双眸は、驚愕に見開かれている。
ゆっくりと元帥の手が持ち上がり、まるで触れれば壊れてしまう繊細なものの手触りを確かめるかのように、そっと私の腕に触れた。
その温もりに、私の心臓がどきんと大きく鼓動を打つ。
銀色の目は私の腕から流れ、胸に移動した。赤い髪が申し訳程度に隠している私の胸の膨らみを無遠慮に見たあとで、元帥の頬が微かに紅潮していく。
元帥の形の良い唇から、驚きすぎて掠れた声が紡がれる。
「君はーー、マリー……?」
「きゃぁぁぁぁっ!!」
私の口から飛び出たのは、ブサ猫の鳴き声ではなく、女の哀れな悲鳴だ。