人に戻ってあなたと①
客間の自分のクッションに寝転がっても、目は冴えていてちっとも眠くならない。
(明日になれば、元帥はここを離れる決心をしてしまう。どうしよう……)
悔しくて思わずクッションに軽く爪を立てながら、窓の外を見る。
煌々と輝く月が暗闇に浮かび、その前を一羽の鳥が飛んでいく。
ぴくり、と私の両耳が立つ。
鳥の姿に、ふと思い出すことがあった。
鳥が翼を広げる姿がわたしの中で、微かな違和感となって引っかかる。
――どこかで、私はおかしいと思うことがあった。けれどこの一連の騒動の中で、深く掘り起こすことなく流してしまってきていた。
違和感の正体がなんなのか、すぐにはわからなかった。
(――そうだ。あの時。呪術を使ってエミリアが私を猫に変えた時…)
エミリアは「また大成功」と言ったのだ。考えてみれば「また」とは妙な言い回しではないのか。
私の視界から軽やかに飛び去った鳥は、かつて妹と共にいた一羽のインコを思い出させた。義母が失踪した直後から、屋敷にいたインコだ。
全ての記憶が、ある恐ろしい可能性を明示していた。
(なんてこと――!)
血の気が一斉に引く。
全身の毛が、瞬時に立つ。
突然義母がいなくなった頃の記憶が、断片的に蘇る。
妹のエミリアは水色のインコを入れた鳥籠を、屋敷の中でいつも持ち歩いていた。
あのインコは必死に義母の名前を言っていて、エミリアが覚えさせたのだと思っていたけれど。そしてそれが屋敷の者たちの涙を誘ったものだったけれど。
でも本当はそうではなくーーインコは周囲の人間に、何かを訴えていたのではないだろうか。
もしかして、あのインコこそが、義母だった?
私がエミリアの呪術で猫に変えられたように、義母はインコに変えられたのだ。
呪術を否定し、ガルネロに一緒に帰りたがった義母をエミリアは邪険に思ったのだろう。
(悪魔だ……)
エミリアは、間違いなく悪魔だった。
あのインコは確か、エミリアの部屋のベランダから鳥籠ごと落下して、死んでしまったのだ。
全身が総毛立ち、居ても立っても居られず、クッションから飛び降りた。
客間の中をウロウロと歩き、唸った。
義母が見つからないはずだ。彼女はとうに死んでいたのだ。否、間接的に殺されていた。
あの美しかった、線の細い義母を思い出す。
北の国から来た義母は、ディラミンの夏の暑さがだめだった。夏の真昼になると、彼女はいつも水を溜めた桶に足をつけ、涼を取っていた。屋敷の人々はそれを「素足を出して、はしたない奥様だ」と嘲笑していた。
だから私が屋敷の隅で桶に足を入れる義母に近づき、扇子であおいであげると、彼女はとても嬉しそうに弱々しく笑ってくれた。
そうして少しぎこちない手つきで、遠慮がちに私の髪を梳いてくれたものだ。
(許せない。絶対に許せない)
義母のことを調べてくれている王女と騎士団に、このことを伝えなければ。
客間に立ててある長い姿見に、白い猫が映り込む。
丸い顔はぺちゃんこで、いつも間抜けな顔が今は怒りで更に膨らんでいる。
怒りは後から後から湧いてきて、わたしの中で大きなうねりとなった。
(私は、猫じゃない)
どうして甘んじてこの姿でいないといけないのか。いや、いようと思ったりしたのか。
――許せない。あの悪魔のようなエミリアと、そして何より私自身の弱さが。
「ブヒャッ、ブナーゴッ(私はマリーよ、人間よ)!」
それを誰かに変えられたり、消されてたまるか。
どんなにポチャ体型だろうが、陰気で地味顔の冴えない令嬢だろうと、誰かに軽んじられる筋合いはない。
マリーはマリーで、良いのだ。
私は後ろ脚で立つと、前脚を使って巾着を取った。巾着は簡単に首から外せたが、開けるのがなかなか難しい。
口に咥えて前脚で引っ張っても、巾着が小さ過ぎて開かない。しまいには苛立ちと焦りが一緒くたになって、爪を立てて引っ掻きまくった。そのお陰でようやく水晶が転がり出てくる。
クッションの近くに置かれたランプの光が、水晶に当たり、表面を鈍く光らせている。
(マリーに戻るのよ。いつまでもこのままでいたら、本当に猫になってしまう)
人に戻ったらやらねばならないことが、たくさんある。
固い決意を胸に、カッと口を開いて水晶を口に含む。
(お、大きい! 思っていたより、飲み込みにくい……!!)
解呪の水晶は人の親指の先ほどの大きさだったが、猫の口で飲み込むには辛過ぎた。口の奥でつかえてしまい、舌の付け根の筋肉が邪魔をして、とても通過できそうにない。
なんとか飲み込もうと格闘すること数分、ついに呼吸がしにくくなってしまい、腹の底から上がってきた空咳のような空気と共に、水晶を吐き出してしまった。
コロコロ、と床の上を転がった水晶は壁にぶつかって止まった。
大きく呼吸をして、窒息寸前だった体を落ち着かせる。
何度も口に入れ、飲もうとするがやはりうまくいかない。
(何か別の方法があるのかしら?)
歯を立てても水晶は硬く、傷もつかない。
思い切って壁に向かって蹴ってみても、割れない。
やがて精魂尽きて水晶を咥えたまま、私はクッションの上にドサリと倒れこんだ。
だめだ。水晶と格闘して、もう疲労困憊だ。
一旦休憩すれば、違う道も開けるだろうと、クッションに伸びきって目を閉じた。
微かな振動と音で、深く心地よい世界から意識が引き戻される。
いつの間にか寝ていたらしい。
顔の下のフカフカのクッションが、気持ちいい。
クッションに顔を埋めたまま、聞き耳を立てる。客間の重厚な絨毯を、誰かがこちらに向けて歩いてくる足音が聞こえた。
そっと顔をそちらに向けると、客間の中程に立っているのは、ランプを片手に持った元帥だった。ゆったりとした毛糸の長いガウンを羽織っているが、胸元から覗くのはパリッとした襟付きのシャツだ。まだ寝間着を着ていないことから、仕事をしていたのだろう。
遅くまで、ご苦労なことだ。
やっと執務を終えて、寝る前に私を見にきたのだろう。
そっと舌を動かすと、水晶はまだ口の中にあった。寝ている間に飲み込まなくて良かったのか、良くなかったと思うべきなのか……。
(――元帥?)
奇妙なことに、元帥は棒立ちになったまま、私の近くにそれ以上来ようとはしない。
ランプの心許ないあかりに照らされた彼の顔は、珍しいことに随分と驚いているようで、目を見開いて私を凝視している。
まさか今更自分が拾った猫のブサ具合に、気が付いたのだろうか。そんなに凝視されると、恥ずかしい……。
それにしても酷いうろたえぶりに見える。手が震えているのか、持つランプの明かりと室内に落ちる彼の影が、小刻みに揺れている。
相変わらず銀色の瞳は、もの凄く見開かれている。
(やだ、何にそんなに驚愕しちゃってるの?)
いつも冷静沈着な元帥が、どうしたことか。
様子がおかしいので何事かと心配になり、うつ伏せていた体を起こそうとすると、元帥が素早く駆け寄ってきた。
「動くな! ――なんて、……なんてことだ!」
元帥はランプを床に置くと、凄い勢いで私のそばに膝を突いた。私は起き上がることができなかった。元帥が白いブランケットを急に被せてきて、私の全身を覆ったのだ。
(えっ、なに、何?)
視界が真っ暗になり、暴れるがブランケットごと元帥に強く抑え込まれる。
かなりの強さでブランケットに包まれていて、ちっとも動けない。
「これは、どういうことなんだ? 何がどうなってる!?」
激しく動揺した声で元帥が呟く声がするが、それと同じことを私が言いたい。
そして次の瞬間、私の体は急に持ち上げられた。体がクッションから離れ、不安定になった直後、腹部に圧迫を感じてそのまま高く押し上げられたのが分かる。ブランケットから見えた視界の片隅に、ガウンを着た元帥の背中が映る。
私はブランケットに包まれた状態で、元帥に抱え上げられ、肩に載せられていた。
元帥は動揺しきって上下に揺れる声で、ひとりごちた。
「頼むから、暴れないでくれ。お互いの名誉のために」
名誉?
一体何の話をしているのか。疑問符だらけで固まっていると、体がガクガクと揺れ始めた。
元帥が私を担いで、凄い速さで歩きだしたのだ。
声を上げようにも、腹部が固い肩に当たって、大きく息が吸えない。あまりに苦しくて意識が飛んだ矢先、突然元帥が立ち止まった。
ばさり、と大きな音と共に私の体からブランケットが剥がされ、床に落ちる。元帥は両手で私の脇の下に手を入れ、自分の肩から私を下ろして目の前にかざした。
後ろ脚がダランと垂れて揺れるので、尻尾を動かしてバランスを取る。
なんなのか、と首を傾げてしまう。
「ブミャ(元帥)?」
「シフォン……? 間違いなくお前、……だよな」
未だ目を丸くしたまま、元帥は私を見つめた。
しばらくの後、銀色の目が固く閉じられ、元帥は首を左右に振った。
「なんだ、飲み過ぎて、私の目がおかしくなったのか?」
気の遠くなるような長い溜め息をつくと、元帥は私を改めて腕の中におさめ、大股で廊下を歩き始めた。元帥の呼吸の中に、度数の高いアルコールの香りが紛れているのがわかる。
ブランケットを落としたままにして、どこに私を連れて行くのか、と戸惑っていると、元帥は廊下の奥にある扉を開けた。
(ここは、どこ?)
元帥はそのまま中に入ると、私を下ろした。
足元にスプリングの反発を感じて驚くと、私が置かれたのは大きなベッドの上だった。
滑らかな光沢があり、すべすべな触り心地からすると、おそらく絹の寝具が使われている。
爪で傷つけてしまわないように、慌てて爪を引っ込める。豪華な人間用のベッドから下りようとベッドの端に向かうと、元帥の手が伸びてきて真ん中に連れ戻される。
「客間には戻るな。今夜はこの部屋を使ってくれ」
(えっ? ここ、明らかに大き過ぎるし、人間用なのに……)
見上げると元帥は片手で自分の側頭部を押さえて、何度も瞬きをして私を見下ろしていた。
「あんな話をした後だからか? 参ったな。それとも私は、欲求不満なのか……? 情けない……。なんてふしだらな幻覚だ」
なんの話をしているのかわからず、何かに苦悩しているらしき元帥を、黙って見ているしかない。
「完全に飲み過ぎた。――私も早く休まねば」
なぜか肩を落とすと、元帥は早足でベッドから離れ、部屋を出ていった。





