あの夜会のこと②
私は頭の中で必死に自分と元帥の間で起きたことを、時系列で整理した。
――私がボンボンをあげたのは、ただ一人。あの大夜会でのことだ。
それは螺旋階段の向こうにある部屋で、遊戯板の横に置かれたメモ用紙を介してささやかなやりとりをした、顔も名も知らない人だ。
なぜ私が小さな文通相手にあげたボンボンが、元帥の手に?
(あの人は、――あれはまさか……?)
そんな私の動揺など知るはずもなく、元帥は私を見下ろした。
「シフォン、お前は何か彼女のことを知っているのか?」
何を言われたのか分からず、耳をピンと元帥の方に向ける。
「エメラインは、お前が彼女を探す鍵になると言っていたぞ。――お前は何か知っているのか? シフォンケーキばかり食べるなと、ボンボンをくれたマリーのことを」
今、なんて……?
元帥が口にしたのはたしかに私の名だったが、まさかという思いが強くて自分の耳を疑ってしまう。
信じられない思いで見上げていると、城代が食いついた。
「お館様はその前に、マリー様とよく紅茶館でお会いしたんでしょう?」
「ああ。私が行く紅茶館に、マリーもよく来ていたんだ。最初はどこの誰なのかは知らなかったが、幸せそうに紅茶を飲む姿が、いつも私の目を引いた」
全身を耳にして聞き入ってしまう。
「他の令嬢のように澄ましたところがなくて、マリーの周りだけフワフワと穏やかな空気が流れているようだったよ」
「ブヒャ(そんな風に見えたの)?」
「給仕が茶を運んでくると、必ず丁寧にお礼を言っていたのが、印象的だった。目すら合わせない客も多いからな」
「礼儀正しい、すてきなお嬢様ですね!」とサイモンが感心したように合いの手を入れる。
紅茶館に私がいたことに、元帥も気がついていたなんて。
――元帥は本当に、私のことを話しているんだろうか。
指し示す事実は一つなのだが、目の前で繰り広げられる会話が、とても信じられない。
「ある時、マリーが紅茶館にマクシム王子と来てね。その時に、自分でも驚くほどがっかりしたものだ」
「しっと、なさったんですね!」
正直過ぎるサイモンを、城代が肘で小突く。
「でもその少し後から、彼女が紅茶館で塞ぎ込んでいる日が増えたんだ。――その後で、彼女と殿下の婚約破棄の噂を耳にした」
情けなくて、耳を垂らして小さくなってしまう。だが元帥はなぜか嬉しげに口角を上げた。
「その噂が快かった私は、実に性格が悪いな。だが私は彼女が他の男と紅茶館に来る姿を、実は見たくなかったんだ」
「お館様は、その頃からマリー様がお好きだったのですね」
サイモンが感激したように胸を小さな手で押さえながら、つぶやいた。今度は城代も、サイモンを小突いたりはしなかった。
「そうだな。だから、ディラミン子爵から縁談を持ちかけられた時、すぐに応じたよ。そして直後の大夜会の日に、マリーは思いがけず王宮に現れたんだ」
「じゃ、マリー様と大夜会で一緒に踊ったんですか?」
興奮気味に聞くサイモンに、元帥は頭を振った。
「いや。私は大広間には行かず、遊戯板で少し王太后のお相手をしてから、部屋までお送りしてお喋りに付き合ったんだ」
王太后は元帥の祖母にあたる。
(やっぱり。遊戯板の部屋にいたのは、元帥だったんだ!)
あの時元帥は、私が部屋に入ってくる少し前まで王太后と一緒にいたのだ。
「王太后をお送りして戻ったら、何者かが勝手に侵入して、遊戯板をいじっていてね。おまけに美しい字で、なかなか心憎いメッセージを残していたんだ」
「ブヒャッ(それって)……!」
私が書いたもののことだろう。
あれを読んだのは、元帥だったのだ。
「おそらく夜会の参加者だろうから、翌日も来るかと思って待っていたら、見事に来てくれたよ」
「じ、じゃあ、もしかしてその人が……? そこでばったりマリー様とお会いしたので?」
隠しきれない好奇心で頰を染め、サイモンが続きを促す。
元帥は風に消されそうなほど小さな声で、いやそうではない、と答えた。
「私を怖がる者は多い。姿を見られまいと、タペストリーの裏に隠れたんだ。――だが驚いたことに、やってきたのは紅茶館の彼女だった」
それはもう、間違いなく私のことだった。
(なんてことなの! 全然知らなかった)
あの部屋には誰もいないと思っていた。この元帥があの場にいて、隠れていたなんて。
あの時、私がメモを書いた相手は、元帥だったのだ。
当時の映像が脳内に蘇る。
そして私は心の中で、ああっと叫んだ。あの最後のメモと夜会の出来事が、突然一本の線となって繋がった。
私があの夜、大広間で紅茶をかけてしまい、ナプキン片手に狼狽えていた時。マントを体にかけ直した元帥が着ていたのは、確かに赤いジャケットだった。慌てていてちっとも気が付かなくて、ましてや馬のブローチをしているかなんて、探しもしなかった。
大夜会の最後の夜。私が会いたかった人は、この元帥だったのだ。
(元帥、私は――マリーはここにいます!)
元帥は椅子に座ったまま腰を折り、床に散ったガラスの破片を摘み上げた。サイモンも駆け寄り、広げたハンカチの上に破片を集めていく。
不意に元帥は破片を拾う手を止め、自分の指を見た。人差し指の先から赤い血の粒が溢れ、感傷的な声で漏らす。
「戦が好きな国など、あるのでしょうかーーか。正直に言うと、私だって好きなわけではない」
それは私が夜会の初日に、メモに書き込んだことへの、元帥の答えだった。
「戦ばかりの人生が、嫌になったよ。名声よりも彼女と穏やかに紅茶を飲む方が、幸せだと思った」
皆、何と言うべきか分からなかった。
サイモンは破片を片付ける手を止め、心打たれたように黙って元帥を見上げていた。
大軍を率いて方々を駆け回り、軍人としての名声を不動のものにしてきた元帥は、私たちが勝手に作り上げた偶像だったのだ。
もしかして、私たちは王国を守り強大にしてくれる戦好きの軍人という人物像を作って、安心したかったのかもしれない。
元帥は長いこと、世間の身勝手さに苦しめられてきたのだ。
「マリーと、直に会って話してみたかった。子爵から縁談を提案された時は、本当に嬉しかったんだ」
「お館様。このトムは、子爵令嬢との結婚にお館様があんなにも前のめりなのは、単にゴロー島行きを打診されないようにしたいからなのかと、ずっと思っておりました」
「マリーでいい、と思ったのではない。マリーがいい、と思ったんだ」
あの時。
もし私が父から元帥との縁談を初めて聞かされた時に、元帥の気持ちを知っていたなら。
私たちには今とは違った未来が広がっていたかもしれない。
元帥は話を締め括るように言った。
「世間に揶揄されるマリーを、助けられるかもしれないなど、思い上がりも甚だしかったな。結果的に彼女は失踪するほど、私との縁談が嫌だったというのに。……マリーとはすれ違うだけの運命だったと思うことにするほか、ない」
元帥は椅子から立ち上がると、開いていた窓を左手で閉めた。
風にもてあそばれ、生き物のように動いていた白いカーテンが一瞬で命を失い、ただの布に戻る。
「明日、王宮に行って国王陛下にゴロー島への打診を受けるとお伝えする」
止めたい。
今の元帥には、彼が好きな紅茶を飲んでもらうための磁器製カップをメルク領内で製造し、王国に広めるという夢があるのに。まさに今、夢を実現すべく動きだしたところだったのに。
その場にいた私たちはみな、そう思ったはずなのに、誰もそれ以上の説得材料を持ち合わせていなかった。





