あの夜会のこと①
公爵邸に戻ると、元帥は留守にしていた。
王宮からの呼び出しがあり、彼も王都に向かったらしい。入れ違いになってしまった。
王女は私を送り届けると、「シフォンは子爵家の失踪者の謎を解く鍵になるから、大事にするように」との伝言を城代に残していった。
城代は王女の前で首を傾げるのをなんとか堪えているような、いかにも奇妙そうな表情で伝言を任されていた。無理もない。
元帥は夜に帰宅した。
馬車の車輪の音を聞きつけ、玄関ホールを目指して走った私は、マントを夜風に靡かせながら屋敷に入ってきた元帥を前に、立ち止まった。
彼は乱雑にマントを脱ぐと、ホールの隅の椅子の上に放った。
後ろで編まれた白金の髪は珍しく乱れていて、表情も険しい。
膝まである革のブーツを室内靴に履き替えもせず、大股でホールを抜けるその様子は、とても不機嫌そうだ。
(王宮で、なにかあったの?)
それ以上近寄らずに玄関ホールの入り口で固まっていると、元帥はそこで初めて私に気がついた。
険しかった表情が、いくらか和む。
「シフォン、帰ったのか」
元帥は長い腕を伸ばして私を抱き上げると、溜め息混じりに呟いた。
「私を忘れなかったか?」
そう言って小さな笑みを見せてくれたが、元帥の力ない微笑はどこかやさぐれて見えた。
帰宅した元帥のために、食堂には遅い夕食が運ばれたが、彼は料理に手を出さず、酒ばかり飲んだ。
次々に酒瓶が空になっていくので、サイモンは何度も廊下を行き来して酒を運んだ。
元帥は食堂に城代を呼び、二人で何やら話し込んでいた。
二人とも厳しい表情で、どうやら王宮で良くないことが起きたのだ、とわたしにも分かった。
「お館様、どうしちゃったのかな? 珍しく、凄く荒れてるよ」
両腕に空瓶を抱え、サイモンは目尻を垂らして泣きそうな顔で廊下を歩きながら、首を左右に振った。
元帥は料理を食べず、皿を下げさせてしまったので、調理人は頭を抱えた。
下げる時にサイモンは食べ物はもう何も持ってくるなと元帥に命じられていたが、サイモンはそれに反して調理人に最後にデザートを頼んだ。
サイモンが用意させたのは、生クリームを添えた、ふわふわの紅茶のシフォンケーキだった。
サイモンは皿を片手に、厨房から食堂に向かって歩きながら、後ろをついていく私に教えてくれた。
「だって、何か少しでも食べて頂かないとね。お体に悪いもの。――お館様はね、シフォンケーキが大好きなんだよ」
好物なら口にしてくれるだろうか。
空の胃に酒ばかり入れてしまうと、悪酔いするとも言う。
食堂に戻ると、元帥はテーブルの近くにもういなかった。彼は窓辺に椅子を移動させて、そこに深く腰掛けてグラスを傾けていた。
大きな窓は全開にされ、外から吹き込む風はかなり冷たく、食堂全体は廊下よりも冷えた。近くに立つ城代が、寒そうに二の腕をさする中、元帥は風を受けて髪を靡かせ、酒で熱くなった体を冷ますかのように、表情なく窓の外を見ていた。
「お館様、シフォンケーキをお持ちしました」
やや間が空いてから、元帥はサイモンを振り返った。
銀色の目は少しとろんとしていて、白磁の肌に微かに朱が差している。
高い鼻梁に掛かった乱れる髪を雑な手つきで後ろに払ってから、元帥は酒に掠れた声を出した。
「ああ、シフォンか」
元帥は両手を伸ばし、私の体をヒョイと持ち上げた。――違う違う、私じゃなくて。
「お館様、僕が言ったのはシフォンじゃなくて…シフォンケーキです」
サイモンに指摘されると、元帥は差し出された皿をようやく見て、力なく笑った。
「ああ。相当酔ってるな…」
元帥は私を床に下ろすと、少し心惹かれた様子でシフォンケーキを見つめていたが、やがてため息をつくと、額を押さえて目を閉じてしまった。
「――サイモン、本当にすまないが、お前には別の屋敷に仕えてもらわねばならなくなるかもしれない」
「えっ!? なぜですか? 僕じゃ、力不足過ぎるからですか?」
「そうではない。お前はとても良くやってくれている。立派な騎士になれる日は、そう遠くないぞ。王都で懐中時計を作らせているから、せめてお前に渡してからここを出発したかったんだが……」
「僕、このままメルク公爵家にお仕えしたいです!」
するとここで代わりに城代が答えた。
「今日国王陛下から、お館様に南のゴロー島に提督として赴任しないかと打診があったのだ」
「ゴロー島の?」
驚くサイモンの足元に巻き付き、私も城代と元帥の方を交互に見上げる。大陸の南にあるゴロー島は我が国の植民地だが、とても遠い。元帥がなんとしても避けたいと思っていたお役目である。
城代が元帥に問いかける。
「流石にゴロー島の任期は長くなります。断れないのですか?」
サイモンがそれに加勢する。
「そうです。僕も反対です! だって、工房をいよいよ本格的に稼働させようとなさっているこの時期なのに!」
元帥はグラスを傾け、薄い唇の間に琥珀色の酒を流し込むと、一息で答えた。
「私も不本意なんだ。だが残念ながら、国王直々の打診を特に断るに値する理由が今の私には、ない。――慣例的に結婚以外で断れるのは、親の葬儀が控えている時くらいだ」
皆が口をつぐむ。風が激しく揺する白いレースのカーテンの音だけがバサバサと音を立てていて、うるさい。
元帥は二の腕をさする城代を見やり、何かを思い付いたように言った。
「お前の言う通り、例のあの令嬢リストから、誰でもいいから一人選ぶか?」
投げやりな口調はちっとも本気ではない。
元帥は自分で提案しておきながら、鼻で笑った。
「そんな結婚では誰も幸せにはなるまい。何より、選ばれる花嫁が気の毒だ」
「ブミャ〜、ミャー(南の島なんて行かないで、私を置いていかないで)」
サイモンの足元から私も必死に訴える。
「シフォン、お前は変わらずここにいていいんだ。心配ない」
そんなことを言いたいんじゃない。元帥に行ってほしくないのに。
だめだ。
一生懸命鳴いたって、元帥には伝わらない。
私が何を言っているかなんて、彼には分かりようがないのだから。
所詮私は、猫でしかない……。
情けなくもブタ猫の声でブヒャブミャ説得を試みようが、何一つ伝えられない。
(わたしの気持ちを言葉にできたら。元帥と、対等に話せたら…)
白くてふわふわした小さな生き物の、あまりの無力さに、今更ながら絶望する。
城代はブヒャブミャと床で暴れている私を避けながら、元帥の肩に手を置いた。
「お館様、マリー嬢の捜索にその後進展はないのですか?」
すると元帥は空になったグラスを窓の桟に載せた。
「あの子は、どこかに消えてしまったよ。まるで絵本の中の魔法のように」
強い風が吹き込み、桟の上のグラスが傾き、床に転がり落ちる。衝撃で割れるカシャンという高い音がした。
元帥はおもむろに自分のジャケットの胸ポケットから小さな包み紙を取り出した。
そのカラフルな包み紙には、ひどく見覚えがある。元帥が持っているのは、私の叔母の燃料である果物のボンボンだった。
(どうして、そのボンボンを貴方が……?)
元帥はボンボンを手のひらに載せて眺めながら、つぶやいた。
「実際私が手元に持っている彼女との接点は、このボンボンくらいしかない」
サイモンが無邪気に尋ねる。
「そのボンボン、どうされたのですか?」
「マリーから貰ったんだ」
元帥の言っていることがすぐには理解できず、足元をウロウロしてしまう。
 





