異端審問官③
王都に着く頃には、正午になっていた。
馬車はまっすぐに、ある場所に向かっていた。王立教会である。
王都の中心地にある小高い丘の上に立つ王立教会は、エーデルリヒトで最も古い教会であり、水晶騎士団が結成された場所でもあったので、王都の歴史的そして象徴的な建築物として、国民から愛されている。
エメラインは馬車の窓ガラスを人差し指でコツンとつつき、外に聳える古めかしい教会の建物を差した。
窓から差し込む光に目を眇めながら、彼女は話しかけてきた。
「古の皇帝と水晶騎士団の伝説は、知っている?」
「ブニャ(勿論です)」
エーデルリヒト建国の物語で、誰もが子供の頃に、一度は聞く伝説だ。
大昔に存在した邪悪な帝国と、それを倒した英雄たち・水晶騎士団の話である。
古の時代、アンドラス大陸は一つの広大な帝国だった。
皇帝は強大な呪術によって大陸を統一し、圧政を敷いて民を支配した。
やがて皇帝の支配に苦しむ人々を救うため、勇者達が立ち上がった。彼らは水晶の剣を手に騎士団を結成し、皇帝に反旗を翻したのだ。
水晶騎士団は宮殿に攻め入り、皇帝の首を取った。
かくして邪悪な帝国は滅亡した。
「ここまでは、知っているでしょう? 有名な伝説よね」
エメラインは伝説をすらすらと話すと、車窓に向けていた目を私に移した。
「でもこれは伝説ではなくて実話なの。そして、水晶騎士団の仕事は皇帝を倒して終わりではなかった。騎士団は皇帝の遺した美しい皇女を探していたの。――私たちの仕事は、まだ終わっていないのよ」
皇帝が水晶騎士団によって討たれると、皇女は逃亡したのだ。その手には、帝国の君主たる証ーー印章が握られていたという。
水晶騎士団は最後の皇女と印章を血眼になって探した。
何故なら、印章には邪悪な皇帝の呪力が込められていたのだ。
印章は見つからず、八百年が過ぎた。
水晶騎士団は今も連綿と続き、皇女の子孫と印章を執念深く、探し続けているのだという。
印章を完全に葬り去るために。
「印章に、心当たりはない?」
妹の持ち物全てを把握しているわけではないが、印章を見たことはない。私が正直にそう伝えると、エメラインはやや落胆した様子だった。
王立教会の庭園はよく手入れされていて、王都民の憩いの場になっており、教会のファサードを飾るステンドグラスは大変美しく、毎日たくさんの人々が訪れる。
その一方で建物の中は非公開となっていて、一般の人は覗くこともできない。
石を積み上げて作られた教会は決して大きくはないが、細く優美な塔を持ち、貴婦人のような佇まいを見せている。天高い秋の昼の日差しを浴びて、鮮やかな色の中にある丘は、この時刻の教会全体を神秘的にしていた。
馬車を降りて教会の入り口に向かったエメラインは、後ろをトテトテと歩く私に言った。
「王立騎士団が異端審問官として動く時は、ここを本部とするのよ。異端審問官は、王立騎士団の精鋭から選出されるの」
歴史を感じさせる分厚く古い正面扉が、蝶番の軋む重たい音を立てて開かれる。
初めて見る内部の様子に、目を見張る。
教会内部は奥に向かって縦に長い構造をしていて、両側に並んだ大きな窓から光が入り、線状になって斜めに内部に落ちていた。
一般的な教会は中に信者たちが座るための長椅子が並んでいるものだが、椅子は見当たらず、代わりに石の柱が奥まで整然と並んで天井のアーチを支えている。
床に敷かれた大きな四角形の石畳の上を歩くエメラインの靴音が、カツンカツンと高い天井に反響している。
灰色の石畳はヘリがすり減って窪み、やや歩きにくい。人々に踏まれ続け、長い年月の間に凹凸が出来たのだろう。床からもこの王立教会の歴史の長さを感じられる。
静謐にして空気が重厚で、古い建物特有の埃っぽい匂いがする。
一番奥には祭壇があり、更にその上には柄を上にした一本の大きな剣が描かれた絵画が飾られている。恐らく、水晶の剣を描いたものだろう。
この剣を讃えなさい、という無言のメッセージを感じる。
祭壇の前には、大きな青銅の甕が置かれていた。
並んだ柱に導かれるようにして奥へと進み、その甕の近くまで行くと、あっと息を呑む。甕の周りには帯剣した騎士たちが二人、柱の陰になる位置に立っていたのだ。
私の緊張に気づいたのか、エメラインが口を開く。
「彼らは、二人とも水晶騎士団員よ」
紺色に銀糸の刺繍がされた王立騎士団の制服は、王都に住む者にはよく知られていたが、ここにいる二人の制服は、少し形が違っていた。
一番上に着ているジャケットは、足首近くまである長いもので、腰に下げる剣は鞘こそいつもと変わりない銀色だったが、覗いている剣はその柄が透明だった。
(もしかして、あれは本物の水晶の剣かしら?)
異端審問官としての任務に就く時は、鋼鉄の剣を水晶のそれに変えるのかもしれない。
騎士たちは二人とも、口に髭を蓄えた中年の男性だった。彼らは私が近づくと前に進んで甕の前に立ち、少し首を傾けて私の姿をよく見ようと瞳を細くした。
彼らに向かい合い、私の隣で立ち止まったエメラインが、教会の中ではやたらに声が響くからか、小さな声で言う。
「どうかしら? 何かあなたたちにも、わかるものがある?」
二人はほとんど同時に、腰の剣の鞘に軽く指先を触れた。抜刀するような仕草ではないが、私をしっかりと見据えたまま剣に触れているので、どうしても身構えてしまう。
剣から手を離した男が、重々しい様子で首を縦に振る。
「この猫から間違いなく、呪術を感じます。剣が微かに震えますので」
「しかし、猫自体からは何の力も感じません。何者かに、術をかけられたのでしょう」
「ブニャっ(術者は妹よ)!」
ここぞとばかりに声を上げるが、二人に言葉は通じないようだ。特に何の反応もない。
エメラインは騎士たちに私の話を始めた。
彼らは平静を装ってその話に耳を傾けてはいたが、時々目を剥いて視線だけを私に向け、信じられない様子で私の耳のてっぺんから尻尾の先まで眺めた。
彼らの話によれば、子爵邸に王立騎士団が赴いた本当の理由は、呪術の痕跡があったからだという。
「当時は何も掴めませんでしたが、やはりあの時の違和感は、間違いではなかったのです」
騎士団員は私の義母が行方不明になった時も子爵邸に行ったことがあったらしく、エメラインの話を聞き終えると拳を握りしめて、胸のあたりを軽く叩いた。
「今度こそ、呪術者の尻尾を掴みましたね」
その比喩に私は無意識に尻尾に力を入れてしまう。
「団長、今すぐこの猫を連れて、子爵邸に乗り込みますか?」
団員が尋ねるとエメラインはすぐにそれを否定した。
「このままの姿でマリーを連れて行っても、誰も信じないわ。猫では証言ができないし、子爵夫人についてはしらを切られてしまう。もう少し証拠を掴んでからにしましょう」
そこで一旦言葉を区切り、エメラインは私の前で膝を突いた。エメラインを跪かせてしまい、にわかに焦るが彼女は私と目線の高さをなるべく合わせると、柔らかな声音で語りかけてきた。
「マリー。私に貴女の声が聞こえたのは、呪術が少し綻びかけているからよ。効果は永遠ではないの。解呪の水晶を使えば、呪術が解ける可能性があるわ」
それは、猫から人間の姿に戻れるということだろうか。
降って湧いた朗報に、思わず尻尾をピンと立てて立ち上がる。だがエメラインの表情は私とは対照的に芳しくない。
「貴女は、どうしたいの?」
どうしたい?
なぜそんなわかりきったことを聞くのだろう。私は今すぐマリーに戻って、そして……。そしてーー?
ここまできて、勢いづいていた私の気持ちが急に萎んでいく。
そしてそのことに自分で一番驚いてしまい、エメラインと目を合わせていられず、私の目線が下がっていく。
脱力して自分の白いふわふわの毛に覆われた前脚を見つめた。
(ーー私は冴えないマリーに、戻りたくない)
マリーの人生は、みじめな日々の連続だった。
愛されて輝く妹の、影のような子爵邸での生活。
猫にされて辛かったけれど、思い返せば最近はそうでもなかった。
公爵邸での日々が頭の中に、キラキラと甦る。
陽気な調理人や、可愛いサイモン。しかめっ面だけどお茶目な城代。
何よりあの屋敷に戻れば、元帥が優しい声で私の名を呼び、温かな腕で抱き上げてくれる。
悩んでいると、エメラインが問いかけてきた。
「猫のままの方が、いいと思ったりしていないわよね?」
そんなことはない。でも。
「ニャーゴ(元帥が)……」
「ラインハルトが、好きなのね」
「ゥニャッ(まさか)!」
慌てて首を左右に振って否定すると、エメラインは小さく噴き出して溜め息をつきながら笑った。
「気がついていなかったの? 昨日、彼の腕の中で自分でそう言っていたのに」
(私、そんなこと言っていた!? 全然気が付かなかった。ニャーニャー鳴いているだけだと思っていたわ)
マリーは元帥との結婚同意書を交わす寸前で逃亡し、元帥に大恥をかかせた。
公爵家の人を失望させたのだ。
元帥はマリーに戻るよりシフォンでいる方が、きっと可愛がってくれる。
俯いて悩んでいると、エメラインがそっと手を伸ばして私の頭を撫でた。
「呪術は、心が弱っている人にかけやすいのよ。猫の方がマシだなんて、絶対に思わないで」
あまりにも的を射たエメラインの忠告に、胸の真ん中を一突きにされた気がした。
甕の前に立っていた騎士の一人が、袖をまくると右手を中に突っ込み、中から何やら小さな丸くて透明の石を取り出した。水が滴るその石を、騎士は未だ膝を突いているエメラインに手渡した。
そのまま流れるような仕草で私に差し出されたそれは、光を反射して輝くガラスのような真珠大の石だった。
エメラインは私の目をしっかりと覗き込みながら、よく言い聞かせるように言った。
「これは、解呪の水晶よ。教会にある聖水の中に一晩浸しているの。マリー、これをタイミングを間違えずに飲めば、きっとあなたの呪いは解けるわ」
(呪いが、解ける。つまり、人間に戻れる――!)
エメラインはそう言ったが、私はそれをすぐに受け取る気にならなかった。
確かに、呪いは、私自身の問題でもある。自分に自信を失っているときに、きっと相乗効果があるのだ。
エメラインは受け取ろうとしない私に痺れを切らし、小さな巾着に水晶を入れると、私のレースの首輪にそれを結びつけ始めた。
「マリー。貴女の迷いが、呪術を更に解きにくくしてしまうの。本気で人間に戻りたいと強く思った時に、これを使ってね。――猫に完全に染まってしまう前に、飲み込むのよ」
人間に戻れなくなるなんて、さすがにゾッとする。
問題は、いつどこでそれを飲むかだった。