異端審問官②
「アルフォンソ、どうした?」
「団長にご覧頂きたいモノが、あってね」
言うなりアルフォンソは、バスケットの蓋を素早く開けた。
急に光が入って眩しくなり、目を細めてしまう。
元帥は驚いて見開いた目で、私を見下ろしていた。
「シフォンを? どういうことだ?」
訝しげにそう言いながら、元帥が私を抱き上げる。客間を振り返ると、エメラインは彼の真後ろに歩いてきていた。
エメラインは灰色の目を、何かにとても驚いたように丸くしていた。元帥の腕の中の私と目が合うと、彼女は眉間に影を作って表情を硬くした。それを見て、アルフォンソが腰に両手を当て、首を傾けて私を冷たい目で見下ろす。
「エメライン様。この猫をどう思われます?」
ああ、そうか。
アルフォンソの目的はこれだったのだ。私を王女に見せようとしたのだ。
「こ、この猫はどうしたの?」
「先日の雨の夜に、王都で拾ったんだ。あまりにずぶ濡れで、憐れで」
元帥が説明をすると、エメラインはその細い眉を顰めた。私を半ば睨むように見つめたまま、素早い仕草で胸元からネックレスをつまむと、鎖を引きちぎり、その先にぶら下がっていたペンダントトップらしきものをこちらに向けた。まるで武器のように。
エメラインが私に向かって構えたのは、親指の先程の大きさの丸い透明な石で、金色の枠に取り付けられていた。
「どうなさったのです?」
アルフォンソはエメラインの行動を予測していたように、平坦な調子で尋ねる。
エメラインは険しい視線を私に固定したまま、顔だけアルフォンソの方に向け、重々しい声で言った。
「この猫からは、ただならないものを感じるわ。何か、危ないものかもしれない」
「なんと。兄上、聞かれましたか?」
アルフォンソはわざとらしい声で言った。
「何を言う。シフォンほど人畜無害な子は、そうはいない」
エメラインの緊張はまるで解かれない。むしろますますその凛々しい顔の険しさが増していく。
凶暴顔の私を前に、元帥の説明はあまり説得力がないのだろう。
だが元帥はエメラインの様子などまるで気にしないかのように、甘い顔を蕩けさせ、私の頭に頬擦りをした。
「私はすっかりこの子の虜だ」
「ーーあなたが、虜……?」
ペンダントを私に向け、敵意を剥き出したにしたまま、エメラインが元帥の発言に困惑顔で首を傾げる。
「最初はただ見た目の悪い猫だと思っていたんだが、今ではただただ、可愛い。目に入れても痛くないとは、こういう気持ちのことを言うんだろうな」
「ブヒャッ(恥ずかしいっ)!」
たまらず両方の前脚で顔を覆うと、エメラインは目を剥いて私を凝視した。掲げていたペンダントを持つ手が、徐々に下がっていく。次にエメラインが紡いだセリフは、随分と掠れていた。
「その猫、物凄く変わった鳴き方をしているけれど、――ラインハルト、あなたは気が付いている……?」
「そこまで変か? 城代は豚ネコなどと呼ぶが」
(ええっ……私、豚ネコなんて呼ばれてるの!?)
ちょっとショックだ。
エメラインは元帥の発言に、即座に首を左右に振った。
「そうじゃなくて。――若い女性の声に聞こえるのだけれど」
「ブニャッ(本当)!?」
目を丸くするのは、私の番だった。
このシフォンの声がそんな風に聞こえるなら、エメラインは耳がよほどおかしいのか、もしくは――まさか、私の言いたいことが、伝わっている?
いや、まさか。
動揺する私とは対照的に、元帥は体を揺らして笑った。
「君が私の猫にそんなお世辞を言うなんて、それこそ意外だ。――だが、なかなか見どころのある猫だろう? 野良猫だったとは思えないほど、人懐こいし、珍妙な模様をしているが毛並みはとても良いのだ。……尻軽殿下などは、この子をブサ猫と呼んでいたが」
「尻軽殿下って、誰のこと?」
きょとんとした様子で尋ね返すエメラインに向かって、私はつい恨みがましい声で、反応してしまう。
「ゥブニャ、ブナー(私の妹に目移りした、第七王子よ)!」
気の強そうなエメラインの凛々しい顔が、驚きに青ざめて崩れていく。挙げ句に立ちくらみでもしたかのように、後ろによろめいて二歩ほど下がると、額を押さえる。白いタフタの手袋をしたその手は、少しだけ震えている。
「まさか……」
私が話した内容がきっと伝わったのだ。
私が伝えたことなど、知る由もない元帥は、エメラインに軽く頭を下げた。
「姉君の前で、失礼した。――行方不明のマリー嬢の元婚約者のマクシム殿下のことだ。ぜひ殿下ご本人から委細を聞いてくれ」
詫びているわりに、元帥は随分と澄ました顔と開き直ったような口振りで、まるで悪びれていない。
エメラインは咳払いをして気まずい雰囲気を一新させると、異様に真剣な眼差しでわたしを凝視したまま、元帥に思いもかけない提案をした。
「ねぇラインハルト。明日貴方の猫を、一日借りてもいいかしら? 丁重に扱うし、夕方までには返すと約束するわ」
「シフォンを? なぜだ?」
「水晶騎士団を束ねる私に言わせれば、この子は不思議な力がある猫だわ。というよりはっきり言うけど、ただの猫じゃないわ。きちんと騎士団の本部で調べたいの。貴方が拾った時期も妙だし、……何か子爵家について知っているのかも」
「どう見ても、ただの愛らし過ぎる子ではないか」
「兄上、どう見ても愛らしくはないだろ」
「あなたでも、親馬鹿になるものなのね」
やや呆れた様子でエメラインが腰に両手を当てる。
「水晶騎士団長の君が言うことを、全否定するつもりはない。――私のシフォンが、ディラミン家の失踪事件の解決の糸口に?」
渋る様子の元帥に対し、エメラインが両手を出して私を求める。
正直、第一王女とは数えるほどしか会ったことがなかったし、この公爵邸を離れるのは私も怖い。不安に思って見上げると、元帥は私を渡すまいとしたのか、支えてくれる腕に力が入ったのが感じられた。
そしてそうしてくれたことが、嬉しかった。
(元帥、私を大事だと思ってくれたの? 相手が王女様でも、渡したくないと思ってくれたの?)
そう思うと胸の中にジワジワと暖かいものが広がっていく。こんなふうに守られることに安堵するのは、とても久しぶりかもしれない。
私は元帥の胸に頬擦りし、彼に甘えた。
「ブナーゴ(大好き)……」
そうして顔を離すと、差し出されているエメラインの腕の中に飛びこんだ。
シフォン、と元帥が険のある声で私を呼んだが、構わずエメラインの腕の中に丸くなる。彼女の腕は意外にもしっかりと固くて安定していて、武芸に精通しているというのは事実らしい、と分かる。
エメラインは腕の中の私と、しっかりと目を合わせてくれた。
「シフォン。明日私と一緒に、王都に来てくれる?」
「ブミャ(はい)!」
真っ直ぐにエメラインを見上げる。
私を見るエメラインの目はほんの少し戸惑いの色を帯びていたが、小さく頷いてくれた。何を肯定してくれたのかわからないけど、呪術に詳しい彼女は、ここへきてようやく、猫の身を照らしてくれる一筋の光に見える。
私を迎える馬車は、午前中のうちにやって来た。
まだ屋敷の周囲は靄に囲まれていて、白い霧が流れてきてはまた押し流されていく。
濁って見にくい中を王女の豪奢な馬車が見え隠れし、やがて屋敷の前で止まる。
エメラインは本気で私を王都に連れて行く気らしい。
私の背中を撫でて暫しの別れを惜しむ元帥に背を向けると、私たちは馬車に乗った。
エメラインは私を向かいの座席に載せると、神妙な面持ちで私を見た。間髪容れずに、祈るような気持ちでこちらから切り出す。
「ブミャーナゴ、ナゴ(王女様は私が言っていることが、理解できているのでしょう)?」
エメラインは一瞬顔を引き攣らせた。
無理もない。猫と会話することに、慣れないのだろう。慣れている人など、いるはずもない。
ぎこちなく自分の耳を触っているのは、耳がおかしくなっていないことを確認したいのかもしれない。
エメラインは耳から指を離すと、一度ゆっくりと深呼吸をしてから、大きく首を縦に振った。思慮深そうな灰色の瞳から敵意は感じられないが、表情は強張っていて、私を警戒しているのだなと分かる。
「ええ。その通りよ。――あなたは、多分……ディラミン子爵家のマリーでしょう? その声にも、聞き覚えがあるわ」
「ブヒャ(流石です、王女様)」
即答すると、エメラインはこめかみを押さえながら、軽く目を閉じた。
「ああ、まさか。なんてことなの」
そう呟いた後で、エメラインは咳払いをした。猫と会話するこの非現実的な状況を、なんとか肯定しようとしているようだ。
「子爵家で何が起きたのか、教えてくれるかしら?」
馬車の上に大きな影が差し、車内が暗くなる。城門塔の中をくぐっているのだ。続けて車体が傾き、速度が遅くなる。屋敷から出る跳ね橋に差し掛かったのだ。
再び車体が平行に戻り、明るくなると私は座席に深く腰を落ち着けた。前脚を揃え、尻尾をゆっくりと座席に下ろす。
向かいに座るエメラインは、私が話を切り出すのを、じっと待っている。
長い話になりそうだった。