王子の婚約破棄
マクシムは私が十八歳になると、よく我が家に来てくれた。
私は彼と家で紅茶を飲んでおしゃべりしたり、庭園を案内しながら散歩をするのが大好きだった。
子爵家を訪問したマクシムは、父に晩餐に招待されることもあり、妹のエミリアとも我が家の食堂で初めて顔を合わせた。
「初めまして、マクシム殿下。エミリアと申します」
妹が真っ直ぐにマクシムを見上げ、二人の視線が初めて絡まった時。嫌な胸騒ぎがした。
マクシムが吸い込まれる勢いで妹を見つめていたから。
晩餐は和やかに進み、父とマクシムも狩の話で盛り上がった。
優しいマクシムは初めて会った妹にも気さくに話しかけ、話題を平等に振った。
マクシムに話しかけられるたび、妹の顔が上気し、花咲くようにその可憐な顔が綻んだ。エミリアが喜び、その輝く美しい笑顔を披露するたび、私の胸中は焦燥感でいっぱいになった。姉ですら見惚れてしまうこの宝石に、心奪われない男性はいないかもしれない、という不安が押し寄せて止まらなかった。
この日は心労のあまり、いつも六つは食べるロールパンを、三つしか食べられなかった。
マクシムはオペラを観るのが好きだったので、時折私は彼とオペラを観に行った。
だがその頃から何故かあまり観劇に誘われなくなり、残念に思っていた。何しろ王族は王都劇場の中で、舞台がとても見やすい位置に、貴賓席を持っていたから。
私はマクシムとデートをしたくて、尋ねてみた。
「ねぇ殿下、最近評判の『王宮からの脱走』は、もう観に行った?」
そう尋ねてみると、マクシムはぎこちなく微笑み、少し答えにくそうに口を開いた。
「いや、うん。実はあれはもう観に行ったんだ。ーーその、母と行ってしまったんだ。今度別のオペラを観に行こう!」
私は無邪気にも、またマクシムにデートに誘ってもらえるのを、とても楽しみにしていた。
だがなかなかその機会はなく、むしろ何故か私が留守中にマクシムが我が家に来ることが増えた。
基本的に出不精の私に会いにきていることを考えれば、奇跡的なほどのすれ違いっぷりだった。
(今日は従兄弟の家に行くと言ってあったのに。忘れてしまったのかしら。マクシムったら、おっちょこちょいね)
な〜んて思っていた私も、流石に徐々におかしい、と察し始めた。
初めての恋に溺れる初心な私の脳内のお花畑に、暗い影が差し始めた。
丁度その頃から、ただでさえ私と距離を取ることが多かった屋敷の侍女たちが、もっと露骨に私を避けるようになった。まるで何か、隠し事があるみたいに。
そうしてある時、私はマクシムと妹が庭で親密そうに体を寄せ合っているのを目撃してしまった。
(えっ、あれは何? 殿下たちは何をしているの?)
風に靡くオリーブの木の隣で、マクシムは妹の手を取り、二人は無言で見つめ合っていた。まるで巨匠が描いた美男美女の絵画のように、完成された美の空間がそこにはあった。
やがて二人の顔が普通ではあり得ないくらい近づくと、私はたまらず叫んだ。
「マクシム殿下!」
二人は弾かれたように互いから離れた。
駆け寄った私に、二人は引き攣るような笑みを必死に浮かべて、言った。
「お、お姉様! お帰りが早かったのね! 殿下がお姉様を訪ねてこられて、……でもお姉さまはいらっしゃらないから、代わりにわたくしが庭園をご案内していたの」
「そ、そうなんだよ。今、丁度エミリアの目に小さな羽虫が入ってしまって、それをとってあげようとしていたんだ」
そうよね。マクシムは誰にでも優しいもの。
それに、エミリアの目はとても大きくて、蜂も入っちゃいそうなくらいだし。
私は残酷過ぎる現実を認めたくなくて、自分を無理矢理納得させようとした。
私を訪ねてきたという割に、マクシムはその日、私と客間で少しだけお喋りをすると、すぐに帰ってしまった。
一体、何をしにきたんだろう。
そして、私が十九歳になってすぐのこと。ついに決定的で残酷な事件が起きた。
大好きな紅茶館を一人で訪ね、馬車に乗って帰っていたある日。
車窓を見ていた私は、己の目を疑った。私は偶然にも見てしまったのだーー王都劇場を一緒に出てくるマクシムと妹を。二人は腕を絡ませて、楽しげに歩いていた。
その姿はまるで、惹かれ合う恋人同士のよう。
気がつくと私は御者に叫んでいた。
「馬車を止めて!!」
泣き出しそうなのを堪えて二人を詰問すると、二人は互いを守るように身を寄せ合った。
楽しく今夜のオペラの感想を話し合っている最中に、突然暴れ牛にでも遭遇したかのように、二人は蒼白になっていた。
エミリアという名の悪魔は、天使の顔で啜り泣き、無邪気に澄んだ声で私に詫びた。
「お姉様、ごめんなさい。わたくし、マクシムを愛してしまったの」
いつの間に、マクシム殿下のことを呼び捨てにするほど、親しくなっていたのか。私はそんな風に呼ばせてもらったことなんて、一度もなかったのに。
「こんなのひどいわ、二人とも。私に隠れて、デートをしていたなんて」
「許してくれ、マリー。私にはもう、エミリアしか見えない」
エミリアを庇うように背後に隠すマクシムを前に、私は茫然自失した。
悲しいのと同時に何故か可笑しくて、目からは涙が溢れてくるのに、笑いが込み上げて止まらない。
「そうよね、殿下。仕方がないわ。エミリアと私を比べたら、――誰だってきっとそうなるわよね」
妹はこんなに可憐なのだから。根暗で陰気な令嬢だから、私は引きこもって読書をするのが趣味で。そのお陰で、視力が低くて瓶底メガネが標準装備だし。
極め付けは、ハミ肉だらけのこのポチャっぷりよね。
歩くだけでお腹の上と、太ももの肉がプルプル揺れるんだもの。今は怒りと笑いで揺れているけど。
エミリアはマクシムの背に庇われながら、私に言った。
「お姉様お願い、わたくしからマクシムを取らないで」
何を言ってるのだろう、この子は。実に可愛らしい声で、実に愚かなことを言う。
そもそもエミリアこそが、私から婚約者を取ったーーいや、盗んだのに。
エミリアはまるで姉の私にこそ非があるのだと言いたげに、付け加えた。
「だってお姉様ではマクシムにふさわしくないもの」
私は二人の裏切りを知って、その場を逃げ出した。
私は泣きながら走った。
涙で汚れたメガネを何度もスカートで拭いながら。
そして子爵邸の自分のベッドに飛び込み、わんわんと泣いた。
翌日、マクシムは私との婚約を破棄し、父に妹との婚約を願い出た。
父にとって二人の隠れた関係はまさに寝耳に水であり、彼は大変な剣幕で怒ったが、祖母が妹の肩を持ったことも手伝い、最後は妹の懇願に負けて二人の婚約を認めた。
祖母の理論によれば、「マリーが少し我慢すれば全て丸く収まること」なのだった。
そして「婚約者を妹に奪われた情けない子爵令嬢」の話は、光の速さで王都中に広まった。
客観的に考えれば被害者は私なのに、なぜか私は純愛を邪魔した「悪役令嬢」のように扱われた。妹とマクシムの恋愛は、障害を乗り越えた美男美女の一途な愛の物語として、人々に語られたのだ。
もちろん、障害とは私のことだろう。
人は美しいものに正義があると思うものなのだ。
白鳥とカラスの喧嘩を目撃したら、誰もが根拠なくカラスを悪だと断じ、白鳥を助けたいと思うように。
お読みいただき、ありがとうございます。
冒頭はシリアス展開ですが、途中からは基本コメディです。