ついに向けられた疑惑の目
元帥は決して私の叔母に気休めを言ったのではなかった。
その後、元帥は馬車を走らせて王都の中心部にある紅茶館に次々と顔を出し、「失踪したマリー」を探した。
元帥にとって私など、彼にとんでもない恥をかかせた女でしかなかったはずなのに、一生懸命探してくれる姿に胸を打たれる。
元帥は夕方までそうして奔走してくれたのだが、当然ながら「彼女」は見つからなかった。
だってここにいるのだから、見つかるわけがない。
むしろ探し回らせてしまって、申し訳ない。
公爵邸への帰り道、元帥は疲れたのか車窓をじっと見つめながら黙っていた。差し込む強烈な夕日が、元帥の白金色の髪の毛を赤金色に変えている。
サイモンは車内の物入れの木箱から何やら分厚い冊子を取り出し、読み始めていた。
車内はガラガラという車輪の音しかしないので眠くなり、元帥の膝に頭を乗せてうとうととしていると、彼の手が私の背を撫でる。
見上げると元帥は窓に顔を向けたまま、小さく呟いた。
「どこに行ってしまったんだ、マリーは」
(ここにいます!)
それを聞いてサイモンが、読んでいる冊子を元帥に向けた。
「ねえねえ、お館様。そのマリー様ってこの本に載ってる?」
サイモンのかざしている冊子の表紙を見て、びっくりした。表紙にはデカデカと「城代トム厳選!!お館様にピッタリの華麗なる帝国のレディ達リスト」と書かれていた。
覗き見ると、左のページに令嬢のイラストが、そして右側に紹介文がビッシリと書き連ねられていた。
まさか、コレが例のリストだろうか。想像以上の力作なんだけど……。
元帥は面倒そうに小さく息を吐きながら、首を横に振った。
「そこには載っていない」
「この本、面白いですよねぇ。お館様よりもアルフォンソ様の方が愛読されてますけど」
でしょうね。アルフォンソならそういう本、凄く好きそう。
舐めるように読みそうだもの。
「似顔絵の完成度がすごく高いし。城代にこんな才能があるなんて。そもそもレディたちの好きな食べ物まで、どうやって調べたんでしょうね」
「そうだな。個々の男性遍歴まで載っているのは、驚きだ」
「――男性へんれき、ってなんですか?」
サイモンが無垢な瞳を上げて、元帥に尋ねる。
元帥はしばし迷った後で、口を開いた。
「お前はまだ、分からなくていいものだ。――リストが気に入ったなら、やるぞ」
「やったぁ! ありがとうございます!」
もらってどうするのだろう。私の生ぬるい視線に気づかず、サイモンは両手をあげて喜んでいた。
公爵邸に帰り着き遅めの夕食を摂ると、もう眠たくて仕方がなかった。
今日は王都まで行ったし、何よりあまりにも色々なことがあった。動き回って疲れた体を客間の私専用のクッションに横たえると、紅茶館の前で見た叔母やマクシムの顔が鮮やかに思い出された。マクシムのことを考えてしまうと、失恋の痛みにまだ胸が傷む。
(傷つくことなんて、ないのよ。だってマクシムは所詮その程度の人だったんだもの…)
目を閉じてクッションにしがみつくと、ブランケットを被る暇もなく眠りについた。
翌日、公爵邸は早朝から賑やかだった。
慌ただしく使用人たちがあちこちで仕事をしていたのだ。
庭園の木々が綺麗に刈られ、やや伸びていた芝の長さが揃えられていく。
床が磨きなおされ、廊下や玄関の花器には色とりどりの満開の花が生けられた。
城代が矢継ぎ早に指示を出し、更に客間の飾り付けと茶菓子の調理に人員を割く。
公爵家の使用人たちは実にテキパキと効率よく動いた。取りまとめている城代、そして元帥に感心してしまう。
不思議そうに彼らの作業を観察していると、サイモンが私の首にレースの首輪を巻き付けながら、教えてくれた。
「これから、高貴なお客様がいらっしゃるんだよ。誰か分かる?」
「ナーゴ〜(わかるわけないでしょ〜)」
「なんと、第一王女のエメライン様がいらっしゃるの」
それはすごい。
エメライン様といえば、国王の数いる子供たちの中で、王太子と並んで国王から将来を期待されている王女だという。眉目秀麗なだけでなく、王族が成人までにおさめるべき学問を十歳までに全て学び終え、武芸も秀でている。
そのため、王立騎士団の名誉騎士団長を務めているのだ。
エメライン王女は、最も格の高い第一王妃を母とする。私は王子の一人と婚約してはいたけれど、マクシムはエメライン王女とは同腹ではなかったので、一度しか会ったことがなかった。
公爵とはいとこ同士に当たるので、日頃から交流があるのだろう。確か年齢は二十代前半で、身分が高すぎる故に、まだ独身だった。
サイモンはこっそりと秘密を打ち明けるように、小声で続けた。
「僕思うんだけど、お館様とエメライン様って、お似合いなんじゃないかな」
なるほど。言いたいことは分かる。
絵に描いた高嶺の花のような第一王女であっても、天下の元帥には手が届くのだろうし。どちらにとっても、不足はない組み合わせだ。
――でも、だけど。元帥が求婚したのは、名高い王女様ではなくて、この私なんだけど。
(あれ、おかしいな。私、どうしてこんなに苛立ってきているのかしら)
気分が妙に晴れず、なんだか体が痒くなってきて、後ろ脚で耳の後ろをバリバリと掻いてしまう。
王女を迎える準備で皆が忙しくしている中、私は皆の邪魔をすまいと家族用の小さいほうの食堂で大人しく過ごしていた。
日向ぼっこをしたり。床を転がってエクササイズをしてみたり。
そこへ登場したのは、アルフォンソだった。
なぜかアルフォンソは、非常にご機嫌そうだった。人懐こい満面の笑みを浮かべて、肘から籐を組んだ円柱形のバスケットを下げている。
「おはよう、我が家のシフォン」
急に向けられるフレンドリーな態度に、警戒してしまう。
アルフォンソは食堂の出窓に座っている私の横まで歩いてくると、顔の前にネズミのぬいぐるみを置いた。灰色の体に縫い付けられた白いボタンに黒い目が塗られ、お尻からは毛糸の尻尾が出ている。
「お前にプレゼントだ。ネズミ、好きだろ?」
好きなもんですか! とツンとぬいぐるみから顔を逸らす。
「シフォン、つれない奴だなぁ」
落胆の声を上げながら、アルフォンソが私に手を伸ばす。
彼の手が脇腹に回り、そのままグイッと上に上げられる。
(うわっ、何この抱き方!? 下手過ぎるわよ!)
桟の上から引き上げられて、アルフォンソの前に持ち上げられる。体の真ん中を支えられ、四肢がブラブラと不安定に揺れるので、宙をつかもうと思わず爪を出してしまう。
アルフォンソが私の顔を覗き込む。
「いいか? エメライン様に、くれぐれも失礼がないようにな。――この帝国で一番、高貴な女性だぞ」
その口調にエメラインへの尊敬の念を感じ、暴れるのを中断する。このアルフォンソでも、一目置く女性はちゃんといるらしい。
アルフォンソは私を見て、ふっと笑った。そのまま彼は、少し感傷的な声音でひとりごちた。
「エメライン様は俺など歯牙にも掛けないからな……」
脇腹を両手で掴まれて宙ぶらりんの状態で、少し苦しいが大人しく続きを待つ。
「子どもの頃からそうだ。エメライン様は兄上とは仲良くするのに、俺にはつれない」
「ブニャナー(それはしょうがないわー)」
「なんだ、お前相槌打ってくれるのか。――本当に、猫か?」
アルフォンソは軽そうな甘い目を、急に疑い深く細めると、私の体を左右に振った。――バランスが取りにくくて怖い……。
彼はどこか、自嘲気味に歪んだ笑みを浮かべた。
「お前、野良猫だったとは思えないほど、人に慣れているよな?」
ぎくりと身体が固まる。
「その上、屋敷の人間のことを殊更に観察している。――妙に聞き耳を立てて」
(あ、アルフォンソのほうこそ、私のことを妙に観察していたんじゃないの……!)
「みんな人が善いよな。俺は、妙に人間臭いお前が怪しく思えるんだがな」
(やだ、意外と鋭いわね…)
アルフォンソはただの遊び人に見えても、王立騎士団の一員で、水晶騎士団員でもある。
人懐こそうな甘い瞳の奥に、意外な鋭さを感じて急に怖くなる。
もしも、私の本当の姿が人間だと気づいてくれれば、力になってくれるだろうか? でもそんなことを、どう伝える?
ばくばくと心臓が鳴る。敵が味方か、見極めなければいけないかもしれない。
アルフォンソは「よっ!」と掛け声を上げながら私を動かし、床に置いていたバスケットの中に私を入れた。体がすっぽりと内部にハマり、動きにくいが妙なおさまり感が意外にも心地良い。
なんだろうとバスケットの中から見上げると、アルフォンソは瞳をきらりと輝かせて言った。
「想像通り、ぴったりだ。――さぁて、このまま川に流したら、どうなるかな?」
「ブニャッ!?」
慌ててバスケットから飛び出そうと後ろ足に力を入れて立ち上がり、前脚をバスケットの縁に掛けた。そうしてアルフォンソとハッと目が合い、私は自分の犯した過ちに気がついた。
アルフォンソは目をすがめてカゴの前に膝を突いた。ただの女好きの男には見えないくらい、その瞳が綺麗で怖い。
口元は軽く笑みを浮かべているが、目は笑ってなどいない。
「俺が言ったことが、理解できたのか? ――お前やっぱり普通じゃないな」
おずおずと前脚をカゴの縁から下ろす。
「何が目的で、この公爵家に入り込んだんだ? お前、化け猫か?」
化け猫ではないし、ここで悪さをしようとは思っていない。私は力一杯、首をブンブンと左右に振った。するとアルフォンソの顔から、申し訳程度の笑顔が消えた。
「ますます怖いな、お前」
墓穴を掘りまくってしまった。
中身は人間のマリーだから、どうしても人の言葉に反応してしまう。
(どうしよう。アルフォンソなら、本当に私を川に連れて行くかもしれない――!)
その前に彼の手のうちから逃げ出さなければ。
飛び出そうとバスケットの中で身構えると、私が身を屈めたその一瞬の隙をついて、バタンと蓋が閉められた。
「ンニャッ(何すんのよ)!」
暗くなったバスケットの中で前脚を上げて、懸命に蓋を引っ掻く。すると直後に身体が急に傾き、グラグラと前後左右に揺れる。
アルフォンソが私を入れたバスケットを、持ち上げたのだ。
何のつもりなのかわからず、怖くて激しく鳴くと、アルフォンソは上から蓋を数回叩いた。
「大人しくするんだ。暴れたりしたら、本当に川にどんぶらこっこだぞ」
私はピタリと口をつぐんだ。





