王都での予期せぬ出会い③
「ブビャニャー、ナー(私はここよ、叔母様)!!」
必死の形相をした凶暴顔の爆走猫は、襲いかかる野獣にでも見えたのだろう。叔母は、恐怖に顔を引き攣らせて叫び声を上げながら、携えていたハンドバッグを落とした。
叔母のあまりの驚きぶりに、少し手前で私も立ち止まってしまった。
「な、なんだこのブサ猫は!?」
叔母を庇うようにマクシムが立ちはだかりながら、私を睨みおろす。その直後、私の背後で酷く冷たい声がした。
「私の飼い猫が、何か?」
振り返ると歩いてくるのは、元帥だった。肩で息をしているサイモンも一緒だ。
一目で相手が誰か気がついたのか、マクシムは顔を白くさせて狼狽した。
「め、メルク公爵!?」
マクシムは私と元帥の間で視線を何度も往復させた後で、言った。
「こ、この猫が、メルク公爵の…!?」
「私のシフォンを、先ほどブサ猫と仰ったか?」
元帥は流れるような動きで私を抱き上げると、腕の中にすっぽりと収めた。
ぎろりとマクシムに向けられた銀色の目が、ひどく据わっている。
マクシムは超高速で瞬きをしながら、鼻の穴を大きく広げてスピスピと妙な音を立てて息を吸っていた。その姿がなんだか情けなくて、まじまじと見てしまう。
「ぶ、ブサ猫だなんて、とんでもございません。フサフサ猫、と申し上げたのです! ハイ!」
「そうでしたか。それは失礼した。私はこの猫を、溺愛していましてね。万が一、悪く言う者がいようものなら、次の遠征では身分や適材不適材にかかわらず突撃兵として招集して、最前線に送ってやろうかと思ってしまうくらいに」
「そ、そそそのような、失礼なことは、決して申し上げておりませんとも!」
痛々しいほど噛みながら、あまりの威圧感がそうさせたのか、マクシムはなぜか両足の踵を揃えて気をつけの姿勢になった。
元帥はそんなマクシムを冷めた目で睥睨している。
王子とはいえ、王位継承順位の低いマクシムは、元帥にとっては恐れるに足りない相手らしい。
引き攣った愛想笑いをなんとか浮かべるマクシムにゆっくりと近寄ると、元帥は優雅に微笑んだ。
「なぁに、冗談ですよ。しばらくは公爵領の経営にもっと力を入れようと思っていまして。近々、新事業に乗り出す計画がありましてね」
「そ、そそそれは、大成功間違いなしでしょう!」
元帥の腕の中から、私は不思議な気持ちで二人を見ていた。こんなに焦っているマクシムを、初めて見る。
(マクシムは、いつもかっこよくて、自信がある男性に見えたのに。おかしいわ)
マクシムでもこんなに怯えることが、あるのだ。まるで自分の元婚約者を初めて見たような気さえする。
私が元帥の腕の中でマクシムを睨んでいると、元帥はマクシムの背後にいる叔母に話しかけた。
「あなたは確か、ロッソ伯爵夫人ですね。以前何度か、宮殿でお見かけしました」
叔母は女官をしていたので、宮殿に出入りがある貴人には覚えられていた。
元帥に声をかけられると、叔母はドレスの裾を少しつまみながら、しずしずと彼の前に進み出た。そのまま元帥の正面に立つと膝を折り、丁寧に深く頭を下げる。
「公爵様、姪との縁談が進んでいたと伺っております。……姪が大事な時に失踪してしまい、本当に申し訳ありません」
そこへマクシムがやや食い気味に割り込む。
「本当に、ええ本当に無礼なことです。王家とも縁深い公爵家の当主に対して、マリーがしたことは、実にとんでもない」
どの口が言うのか。
同じことを思ったのか、叔母は声を震わせて元帥に言った。
「ーーマリーは妹と婚約者に裏切られたショックから、立ち直れていなかったのでしょう」
「ええ。その最低な婚約者は、確か…」
元帥が叔母から視線を外し、隣に立つマクシムに焦点を当てる。
マクシムはびくりと震えた。目を見開いたまま、まばたきも忘れて銅像のように動きを止めている。
叔母はその丸っこい人差し指で、マクシムをゆっくりと示した。
「このお方ーーマクシム・ノレル・キャリントン第七王子ですわ、公爵様」
「ほぅ。――新旧の求婚者が、こんな所で遭遇するとは奇遇ですね。それで殿下はここで何を?」
マクシムがこれ以上ないほど、気まずそうに顔を引き攣らせる。もはや気の毒なほど、顔面は汗だくだ。
整った顔が、憐れなまでに台無しになっている。
顔を汗でツヤツヤに光らせながら、マクシムが口を開く。
「まま、マッ…」
「ママ? 第三王妃様がどうかなさいましたか?」
「ま、まマリーを、私も……捜索しているところなのでありますっ! メルク公爵殿っ」
元帥は無表情なまま、片眉を跳ね上げた。
「それはありがたい。殿下もマリーを探してくださるのなら、心強い」
元帥は抜け目のなさを窺わせるその読めない瞳の色を眇め、マクシムを見下ろした。
マクシムの唇は、今や土気色をしている。
私は彼の何を知っていたんだろう。
今まで見ていたマクシム像にヒビが入って、少しずつ砕けていく思いだった。
私はこんな人に、ずっと恋焦がれてきたのだろうか。
(見る目がなかったのは私の方だわ、叔母様!)
元帥は叔母に語りかけた。
「私も時間が許す限り、マリーを探します」
「ありがとうございます、公爵様。あの子は散々貴方様にご迷惑をおかけしてしまったのに」
深々と頭を下げる叔母に、元帥は気にするなと首を左右に振る。
「あの後マリーから連絡もありませんか?」
「まったくありません。もう、忽然といなくなったとしか……。もし、あの子を見かけたらすぐに教えて下さいませ」
叔母が懇願するように頭を下げると、元帥は何度も頷いた。
少しの時間も惜しいのか、別の紅茶館を当たりに行こうと叔母が動き出し、マクシムもそれに続く。そこへ元帥が後ろから声をかけた。
「マクシム殿下」
マクシムはびくりと体を震わせてから立ち止まった。まるで錆びついた仕掛け人形のように、ぎこちない動きで元帥を振り返る。
端正な顔が、神経がおかしくなったみたいに引き攣っている。
「は、はい。わ、私めに何か……?」
「殿下は、ひと時でもマリーに想いを寄せていたことが、おありでしたか?」
その質問に驚かされたのは、私だ。思わず元帥を見上げる。
マクシムは元帥の唐突な質問に、なんと答えていいのか迷ったのか、唇を舐めた後で数回口を開け閉めした。硬い表情で彼が「私は、」と言いかけるが、そこへ元帥本人が割り込んだ。
「私は、殿下よりもずっと……」
(えっ、何? いま、なんて……?)
元帥の真意を問いたくても、猫の姿ではどうすることもできない。
見上げる元帥の顔から、目が離せなかった。
(ずっと、なんだと言うの?)
マクシムは何も言わず、青い目を伏せた。私が大好きだった、大海を思わせる目だ。でもあの目が本当の意味で私に向けられていたことは、なかったのだ。